鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
130/602

(毛利秀就)大殿様(輝元)へ御茶被進せ候時請取御座敷へともし候所如件 十一月廿七日 意徳」といった、萩城内で夜の茶会に蝋燭を所望する史料が散見されることを、初めて紹介したい(注17)。つまり、輝元の日常には昼夜問わず茶の湯が組み込まれていたことが分かる。萩藩における茶道の制度が未確立の状況にあったなかで、等顔が御伽衆仲間とともにその一端を担っていたであろうことは想像に難くない。(2)雪舟流の継承者としての側面さらに毛利家では前述した当世茶の湯の唐物評価基準とは別に、大内氏の文化遺産を人的にも物質的にも継承した立場としての評価軸をも持っており、絵画では筆様制作を重んじる傾向にあったと考えられる。とりわけ当時の萩藩内では、雪舟や雲谷派の画風を「高然暉様」、「米元暉様」など中国人画家の筆様で理解していたことは注目に値する(注18)。以上の文化的環境のなかで、等顔が玉澗様山水図を描くことは、すなわち和製の唐絵を生み出す行為であったとも解釈できよう。等顔は玉澗様の和製唐絵の制作者として高く評価されていたのではあるまいか。また、等顔の画家としての社会的地位は、雪舟流の正統な継承者であった。玉澗に対する雪舟の認識と関係性について、石守謙氏の「(玉澗の画法を自己の作品に受容した)雪舟は、『図絵宝鑑』玉澗伝というテキストを通じて、玉澗と価値観を共有し、自分を玉澗の属する雲山系譜の中に位置付けようとした。」という指摘は大きな示唆を与えてくれる(注19)。画家の系譜意識や絵画史における自己の位置付けは、雪舟流を標榜する等顔にとっても重要であっただろう。等顔が輝元から雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」拝領に当たって制作した跋文巻(毛利博物館)には、雪舟流継承に対する自らの抱負を記し、筠溪玄轍が文章を寄せるが、玄轍は「山水長巻」を「夏珪の墨妙」が大成していると讃えた上で、「夏珪-雪舟-等顔」の系譜を高らかに宣言している。同様に溌墨山水図についても、前述の瀟湘八景詩画巻〔図4〕の跋文において玄轍が「右寫玉澗之筆勢/雪舟末葉等顔筆」と記したように、等顔が自らを「玉澗-雪舟-等顔」と玉澗の系譜に連ねてもおかしくはなく、玉澗様山水図を雪舟流の重要画題として位置付けた可能性も充分に考えられるのである。おわりに等顔の溌墨山水図制作においては、玉澗様の和製唐絵を生産するだけにとどまらない、雪舟流ブランドの創出と展開という二重の意義が出現したのではないかと考える。それでこそ、等顔は時代の転換期に新しい玉澗様山水図を研究し、画風の幅広さ― 118 ―― 118 ―

元のページ  ../index.html#130

このブックを見る