⑫戦中・戦後日本彫刻におけるリアリズムとヒューマニズム:本郷新を中心に研 究 者:札幌芸術の森美術館 学芸員 山 田 のぞみはじめに彫刻家、本郷新(1905-1980)は戦後の具象彫刻界において名を馳せ、戦没学生記念像《わだつみの声》や、戦渦に巻き込まれ苦しみの中でもがく人々の姿を表した《無辜の民》シリーズで知られる(注1)。その作品は「人間愛の」や「ヒューマニズムあふれる」といった言葉で形容されてきた(注2)。本郷新のヒューマニズムと平和思想とはどのようなものだったのか、そしてそれがいかにして彼のリアリズムにもとづく造形に結びついていたのかという点については、検討の余地が残されている。本稿では、本郷新の1940年代から1950年代にかけての活動に特に注目し、その造形表現の基盤となるリアリズムとヒューマニズムの特徴を明らかにする。第一章では、1952年と56年の二度にわたる海外渡航において本郷が得た知見、そして文化人との交友関係をたどり、本郷新のヒューマニズムと平和主義思想の背景を示す。ウィーンのオーストリア国立図書館所蔵の資料等をもとに、本郷が参加を希望していた平和会議の目的や参加者を明らかにする。第二章では、本郷新の制作を特徴づけるリアリズムについての考え方がいかにして形成されたかという問題を扱う。1940年代後半から50年代初頭にかけて、戦後の芸術界を賑わせていたリアリズム論争に本郷が一石を投じていた点に注目し、独自に「芸術家はいかにふるまうべきか」という論点を持ち込んでいたことを紹介する。加えて、二度の海外渡航において接した社会主義リアリズムに対して本郷が抱いていた葛藤を美術雑誌や新聞への寄稿文から読み解く。一方、社会主義リアリズムへの距離とは対照的に、本郷が海外渡航時に初めて作品を目にして以来、パブロ・ピカソに生涯を通じて惹きつけられていた点は注目に値する。リアリズム論争において、芸術家の作品制作をもふくめたふるまい、行動の視点を提示した本郷に実にふさわしく、敬愛するピカソを「活動する芸術家」として位置づけ、彼の中に理想的な芸術家像を見たのである。最後に、社会主義リアリズムにみられる思想と造形の間に横たわる矛盾を意識していた本郷が、実際の作品制作においてどのようにヒューマニズムや平和主義思想と作品を結びつけていたかという問題にわずかながら踏み込み、結びとしたい。― 124 ―― 124 ―
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