鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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1.ヒューマニズム、平和主義思想の形成本郷新の戦中の活動は詳らかではなく資料も限られるが、多くの芸術家たちと同様、制作上の困難に直面しつつも作品発表を行っていた(注3)。1945年に終戦を迎えると、それまで翼賛組織として再編されていた芸術家組織は、次第に民主的な活動を目指し新たな団体を設立した。本郷新は内田巌らとともに美術界の民主化を推し進める活動に身を投じ、日本美術会の創始にあたってはその設立当初から参画した(注4)。1946年には内田巌、福田豊四郎とともにユマニテ美術研究所を世田谷に開き、子どもや青年にデッサンを教えている(注5)。こうした戦後の民主化の流れの中で本郷は平和運動へも積極的に参加し、二度にわたる海外渡航はその重要な契機となった。第一回目の海外渡航は1952年12月22日から1953年4月8日にかけて、第二回目は1956年4月24日から7月7日にかけてであった。当時の日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあり、一般の海外渡航が厳しく制限されていた。第一回目の渡航時には、ウィーン諸国民平和大会(Congress of the Peoples for Peace Vienna)(注6)出席とパリ造形美術連盟での講演(注7)のために出国した。ビザの認可に手間取り、大会には間に合わなかったが、パリ、プラハ、ウィーン、モスクワ、レニングラードを歴訪する。本郷が参加を目指していたウィーンの諸国民平和大会は、世界平和評議会(WorldPeace Council)によって運営された国際会議である。世界平和評議会という組織は1950年3月にフレデリック・ジョリオ=キュリーを初代議長として設置された国際組織であり、日本国内ではこの組織に関連して平和擁護日本委員会が結成された(注8)。世界平和評議会は各国で国際会議を精力的に開き、平和運動のための宣言を次々に発表していた。ウィーンの諸国民平和大会には、日本からは政治家の西園寺公一(注9)や歴史学者の羽仁五郎(注10)らリベラル派の知識人が参加していた。大会は1952年の12月12日から19日にかけて開催され、85か国、1857名の代表が集まり討論が行われている(注11)。本大会で採択された宣言においては、世界平和に大きく影響を及ぼす五大国(アメリカ、ソ連、イギリス、中国)に対して平和条約を結ぶ交渉をただちに開始するよう要請したほか、進行中の朝鮮戦争やベトナム、ラオス、カンボジアなどでの非人道的な戦闘行為の中止を求めている(注12)。各国からの平和運動に関する報告については冊子がまとめられており、日本代表団の報告では、GHQによる占領政策に関する記述のほか、農民による農地の軍事利用への反対運動や、原爆投下による被害が記された(注13)。報告の一篇、「日本人はど― 125 ―― 125 ―

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