鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ちらの方向を向いているのか?(アジア太平洋地域の平和会議への全国的な運動について)」では、アメリカの首都ワシントンと比較してモスクワや北京を「平和の首都」と呼び、社会主義圏、共産圏への関心と共感を示している。本郷は会議自体には参加が叶わなかったものの、各国の代表団が会議終了後にウィーンを離れた後に逗留していたチェコスロバキアのプラハへと向かった。日本から参加していた西園寺公一や羽仁五郎ともプラハのホテルで接触し、情報収集に努めている(注14)。本郷は、国内での活動にとどまらず、世界的な平和運動の「今」が集結する会議に参加を希望するほど熱意をもっていたことがよくわかる。プラハ滞在中には、“Congrés des peuples pour la paix Vienne 1952(ウィーン諸国民平和大会 1952年)”の文字が入った紙に、出会った人々の横顔を描き留めた生気あふれる素描を多数残している〔図1〕。もう一点、本郷の平和思想に影響を与えた出来事として重要と思われるのは、1956年の二度目の海外渡航である。第一回目の海外行きとは異なり、今回は文学や演劇、音楽など様々なジャンルに属する文化人から構成される「アジア連帯文化使節団」の一員としての旅であった(注15)。1956年4月24日から7月7日にかけて、インド、インドネシア、ビルマ、エジプト、ギリシア、イタリア、フランス、オーストリア、ソ連、ウズベク共和国、モンゴル、中国、北朝鮮等を歴訪した。この使節団の渡航は、未だ一般人の自由な渡航が認められていない時期でもあり日本に大きな反響をもたらしている。たとえば石川達三は「世界は変わった」を朝日新聞に5回にわたり連載(昭和31年7月11日~15日)し、議論を呼んだ(注16)。帰国後も本郷新と親交が続いた団員には、哲学者の谷川徹三がいる(注17)。谷川は「世界連邦政府運動」を唱え、戦中に知識人が責任を果たすべきであったという反省から、恒久平和を目指す国際的枠組みの構築に関心を抱き、運動を推し進めた(注18)。谷川は本郷の個展に足を運ぶなど折々に交流をしており、本郷の平和思想の形成と発展にも影響を与えたものと思われる(注19)。以上のように二度の海外渡航での本郷の動きをみることで、本郷が彫刻家や画家といった限られた人脈のみならず、平和運動にかかわる政治家や歴史家、哲学者らと面識を得たことがよくわかる。こうした幅広いネットワークの中で、本郷の平和主義は醸成されていったのであった。― 126 ―― 126 ―

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