鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ある。「近代絵画のリアリズムは、懐疑と懊悩叫喚と怒号のヨーロッパの社会的現実に正面から立ち向かっているピカソにその中心的位地を見出すことが出来る」(注24)と指摘し、本郷がピカソへの関心を表明した初期の記述として注目に値する。この文章ではこれ以上詳細な言及は避けられているが、後年に本郷は改めてピカソを芸術家の理想像としてたびたび取り上げている。この2年後、1950年に土方定一、福澤一郎とともに「廿世紀のリアリズムとは?」と題した討論を行った際にも、本郷は芸術家の「絵画的実践」と「社会的実践」とを統一的にとらえるべきことを主張している(注25)。「色々な形式の側からではなく、社会的現実的な実践を通しての人間の変革、個の変革が初めて絵画を変革し得るし、そういう上でなければ日本のレアリズムというも、世界のレアリズムというも、そういうものは形づくられては行かないというように考えるわけです」(注26)と述べ、本郷はレアリズムをある種純粋な「芸術」の枠内において考えるのではなく、作品の作り手である芸術家の社会的実践、すなわち生き方の問題としてとらえている。この考え方は、ある作品がレアリズムに適うか否かを判断する際に、その作者たる芸術家の社会的ふるまいという価値基準が導入されることを意味する。第一章で取り上げた二度の海外渡航に特徴づけられる平和にかかわる精力的な活動は、こうした考えを自ら体現するものでもあったろう。次節では、平和思想を深めるのみならず、本郷が旅を通じて得た社会主義リアリズムに関する知見と、その葛藤を明らかにする。2-2.社会主義リアリズムに対する葛藤1953年1月23日、大会の開催地ウィーンを後にした本郷は、一度プラハに立ち寄った後、モスクワ、レニングラードへと向かう。スターリンの死去後間もないソ連への入国は日本の各紙で報道され、帰国後はその地の芸術状況を知る数少ない人物として、日本文化人会議主催の「平和と文化のつどい」で講演も行った(注27)。本郷は1942年に36歳で発表した最初の著作『彫刻の美』をはじめとする文章において、「思想と形の美とのよき関係性とは何か」という問題をとりあげ、その後の制作人生にわたって追求した(注28)。その本郷にとって社会主義リアリズムは、社会そのものや政治思想との繋がりを強くもつ芸術の一形式として、注目に値する存在であった。しかし本郷は、手放しにこの芸術様式を礼賛しない。当時のソ連の中心的な彫刻家であるセルゲイ・コネンコフ、アカデミーの副委員長を務めるマニーゼルのアトリエを訪問し、特に後者との会見では社会主義リアリズム― 128 ―― 128 ―

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