の主に理論的な側面について知見を得た(注29)。しかしここでは、社会主義リアリズムの是非については論じていない。マニーゼルの作品についても、その謹厳さに気圧されつつ「厳しい理論の上で、練りに練っている作品」と評するにとどめている。その後、「ロダンからムーヒナまで─記念像をめぐって─」(注30)において、社会主義リアリズムの限界として硬直した「写実主義」と冗長な「抒情性」を指摘する(注31)。この文章ではマニーゼルの作品は抒情を抑えているものの、その「せき止め方」に本郷は堅苦しさを禁じ得ず「理論家肌の仕事ぶりが、彼の作品の上では大きな美点であると共に、魅力においてどこか弱い点をまぬかれることができないように思われた」と吐露するに至る(注32)。本郷は渡航以前、1948年の「リアリズムの門」において社会主義リアリズムを名指しにこそしないものの、すでに次のように述べていた。「造形美術のリアリテを社会的現実の共通のものとしてのみ考えようとする立場は、社会的テーマ主義や大衆的共感の予想の上に制作しようとする観念的誤謬に陥ることは、今日でも幾多の事例を見出すことが出来よう」(注33)。この考えにもとづけば、本郷が社会主義リアリズムへ傾倒することができなかった点にも頷ける。一方、社会主義リアリズムへ抱いた葛藤とは対照的に、本郷が心を動かされたのはヨーロッパの行く先々で目にしたというピカソの「鳩」との出会いであった。「私は抗独レジスタンスのフランス画家達の集会所を訪れた。パリといえどう見ても美しいとはいえないビルの二階のうす暗い一室で、私ははじめてピカソのあの重爆のような空飛ぶ鳩のポスターを見た。その年の暮ウィーンで開かれる第一回世界平和大会のためにピカソが画いたものである。…プラーグでは、世界平和評議会の本部正面の壁に4m大の例の鳩が画かれてあった。モスコーでも、レニングラードでも、イルクーツクでも北京でも、あの鳩の重爆が飛び廻っていた」(注34)。このときに本郷が目にしたのはおそらく〔図2〕の絵が使われた1952年のポスターである。さらに当時、現地からは「ピカソのハトの絵の前で プラーグにて/この絵は世界平和評議会の建物です。何より面白いのは左上部にあるピカソのハトの絵です。直径一丈もありましょうか、青色のバックに白く浮きでていて、なかなか見事です。…」(注35)とエッセイを書き送っている〔図3〕。ピカソは1949年に描いた鳩の絵をルイ・アラゴンの求めに応じて同年のパリ平和擁護世界大会のポスターに提供して以来、ヨーロッパ各地で開催される会議のポスターのために鳩を描いた(注36)。ピカソによる鳩の絵は本郷の心を強く惹きつけたとみえ、海外滞在中に現地から日本へ書き送った新聞寄稿エッセイや、帰国してからも印象深い作品として度々言及している。― 129 ―― 129 ―
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