その後、本郷はピカソの作品のみならず平和運動にも言及しその重要性を主張するようになる。「ピカソはどれだけ多くのハトの絵をえがいていたであろう。…ピカソが世界の平和運動のなかで果たしている大きな役割については、ここでも美術批評家たちは知らないか、知らないふりをしている。絵をピカソという人間から切り離して、形式論議を繰り返している。われわれはピカソの芸術のなかの天衣無縫の自由と、ピカソの平和への積極的行動とは切り離し得ないことを知らなければならない」(注37)。ここではピカソを平和運動の旗手として評価し、制作と行動の双方を行う芸術家の理想としてとらえようとしている。本郷の重要な関心事の一つである思想信条と造形表現のバランスを巧みにとる芸術家として、ピカソは理想像となったのである。社会的なふるまいを加味して芸術家を評価する本郷の考え方は、本郷新が美術評論家の匠秀夫との対談において述べるミケランジェロへの思いとも軌を一にする。「ただ静かだったり、ただマッシブであるよりも、動的な要求が内にも外にも出てくるわけです。このごろの考え方でいえば、あれはミケランジェロの体質であると同時に社会性だと思うのですね。テーマそのものの社会性ですね。」(注38)と、ミケランジェロ作品と社会とのつながりに注目する。本郷新がプラハで会った歴史学者の羽仁五郎も、『ミケルアンヂェロ』(1939年)において《ダヴィデ》を引き合いに出し「広場の光線!それがミケルアンヂェロの彫刻における最高の思想であった。彫刻ばかりではなく、ミケルアンヂェロにとって、芸術の目的は、公共の中に立ち、民衆に愛され、一般に親しまれ、希望を鼓舞することにあったのだ。そして、現に、ミケルアンヂェロの最大の傑作“ダヴィデ”は、フィレンツェ自由都市共和制の市民民衆議会大会の会場たる中央広場に、…自由独立をまもる決意を表現して立っている」と社会性の点からとらえている(注39)。田中修二氏は羽仁のこの著作を引用し、戦中の彫刻家たち、とりわけ本郷より一世代上の朝倉文夫や北村西望らの世代の作品について「このような、社会の現実と向き合い、格闘する彫刻表現のあり方が、当時の日本の彫刻家やその批評にたずさわる者たちからはほとんど生まれなかったのではないだろうか」と指摘している(注40)。本郷新は、北村西望らの次の世代の彫刻家として戦後の彫刻界、芸術界のあるべき姿を見定めようとしていた。太平洋戦争開戦前夜にいみじくも羽仁が指摘していたミケランジェロ観と一致するような、芸術家の社会的あり方を戦後の理想としたのである。3.人間像の展開─ヒューマニズムとリアリズムの交点最後にこれまでの議論を総括しつつ、本郷新が1940年代から50年代にかけて制作し― 130 ―― 130 ―
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