鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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た男性像と母子像に改めて目を向け、その造形の成立過程にわずかながらふれておきたい。戦中の発表作品には、《青年坐像》〔図4〕、《老人》〔図5〕など健全な肉体を称揚する健民運動の影響下で発表されたと思われる単独の裸体全身像や、モニュメンタルな力強い男性像《独立の朝》などがある。なかでも《老人》は知人であった農家の男性をモデルに写実に重きを置いた制作を行った(注41)。戦後の作品では、《老人》と同様モデルの研究とともに、国内の美術雑誌や、積極的に入手していた海外書籍に掲載された彫刻のモノクロ写真を研究しており、これらを応用した造形が出てくることがわかった。写真から彫刻の特徴を鋭く感知し独自の造形表現へと発展させている。たとえば1952年の《横たわる青年》〔図6〕はその一例である。本郷は本作について「一昨年、昨年とつづいている『わだつみの声』の連作の第三部をなすもの」と述べる(注42)。その第一部であるところの最も有名な《わだつみの声》(1950年)〔図7〕が、戦没学生記念像として東京大学に建立されるはずであった青年立像であり、第二部が女性立像《塔 わだつみの声》(1951年)〔図8〕を指すと思われる。《わだつみの声》のようにロダンの《青銅時代》を思わせる青年立像は菊池一雄《青年》(1948年)や加藤顕清《人間》(1951年)など類似した例が多く挙げられるが、これらと比較して横たわる男性像は少ない。同時期に似たポーズでモデルを前に描いたと思われるスケッチが複数点残されており〔図9〕、モデルを用いた裸体像の研究を行っていたことがわかる。また、本作のような横臥像は当時の日本においては少ない例ではありながら、古代ギリシア彫刻(ローマ時代に模刻)の男性横臥像《瀕死のガリア人》〔図10〕の型をふまえたものといえるだろう。本郷新も寄稿していた雑誌『美術』には同作のモノクロ写真が掲載されており(注43)、こうした作品写真の研究とモデルの写生とを並行して行いながら制作していたことがうかがえる。さらに、母子像についても興味深い展開がみられる。本郷自身《わだつみの声》につづく重要なモニュメント彫刻と位置付けている《嵐の中の母子像》〔図11〕は、一度目の海外渡航後、「日本ならではの母子像とは何か」を追求するべく制作したという。本作以前の母子像、たとえば1944年に発表され野間美術賞を受賞した《援護の手》〔図12〕はキリスト教の聖母子像を思わせる造形であり、幼児を抱く母は、超越的な存在を思わせる大きな手の中に守られている。本作は人物が手の中にある著名な先行作例であるロダンの《神の手》を思い起こさせる。ロダン作品においては神の手が、アダムとエヴァを創る手であると同時に守る手として表現されており、この点でロダン作品と《援護の手》はよく類似している。一方、《嵐の中の母子像》には、《援護の― 131 ―― 131 ―

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