鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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手》からの大胆な転換がある。《嵐の中の母子像》において母親の手は身体の大きさに比して大きく作られ、右手では赤子を抱きかかえ左手では少年を自らに引き寄せる。大きな手によって幼児とともに守られていた母は一転、子を守る人間として、《援護の手》の包容力を自らに内在させるようになる。これら特徴的な手と人を包む力強い腕の表現には、ケーテ・コルヴィッツからの影響があった可能性を指摘しておきたい。《嵐の中の母子像》の子を守ろうとする母の逞しい腕と手は、ケーテ・コルヴィッツの作品に見られる女性のそれと類似性が認められる〔図13〕。また、ゆったりとした衣服を前傾姿勢の身体にまとわせることで形を量塊としてとらえている点〔図14〕、人物同士を密着させ一塊の造形として表そうとしている点〔図15〕も似通っている。顔を覆う手が重要な要素となっている本郷の作品には、コルヴィッツからの影響が色濃くみられるものがほかにもある。《嵐の中の母子像》と同じ頃に制作された石彫の《声あり》〔図16〕とコルヴィッツの《嘆き》〔図17〕、やや年代を下り《哭》〔図18〕とコルヴィッツの《両親》の手で顔を抑える右側の人物〔図19〕があげられる(注44)。ケーテ・コルヴィッツは両大戦を生き貧困農民や労働者の怒りや抗議をテーマに制作を行った作家であり、プロレタリア美術の先駆とされる。本郷はソ連の社会主義リアリズムには心からの賛辞は表明しなかったものの、コルヴィッツの表現する力強い女性像には感化を受け、自らの作品制作に応用していったものと考えられる。おわりに本稿ではまず、本郷のリアリズム論争に対する姿勢をその著作から読み解いた。主題や技法、作家の内面の問題にまで争点を広げながらも明確な決着をみせなかったリアリズム論争に対して、本郷は芸術におけるリアリズムを芸術家の行動と不可分なものと独自に考えていた。当時の新聞記事からは二度の海外渡航で培った人脈と知見の一端が垣間見える。制作に加えて平和運動にも積極的に参加した本郷のいわゆるヒューマニズムと平和主義が彫刻家に加えて多くの文化人、知識人とのつながりによって醸成されたことが理解される。この海外渡航を通して本郷は、社会主義リアリズムについて知見を深めながらも、その思想と造形の間に齟齬を見出して葛藤し、作品制作を行いつつ平和主義者として活動するピカソに芸術家の理想像を見出すこととなった。戦後の作品制作においては、モデルを前にした写実の研究と、海外の古代彫刻を写したモノクロ写真や、とりわけケーテ・コルヴィッツの作品写真の研究の成果がみられた。― 132 ―― 132 ―

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