注⑴本郷新の生涯と重要作品に関する包括的な論考としては、井上みどり「情熱と行動の彫刻家・本郷新─野外彫刻にかけた74年の生涯」札幌芸術の森美術館、札幌彫刻美術館編『本郷新展 :生誕100年』2005年、pp. 8-15。Supplement to NEW TIMES, no. 1, January1, 1953, p. 3.⒀Japanese delegation to the congress of the peoples for peace at Vienna, Atom Bombing Hiroshima andNagasaki August 6 and 9 1945, Vienna, 1952; Japanese delegation to the congress of the peoples forpeace at Vienna, Some reports on Japan and Japanese peace movement, Vienna, 1952.⑵この傾向は本郷新の同時代および没後すぐの批評文にすでによく表れており、その後の本郷新に対する評価の基盤となってきた。匠秀夫「本郷新の芸術」匠秀夫監修『本郷新彫刻展』求龍堂、1984年。⑶戦時中の彫刻界をめぐる詳細については紙幅の都合上割愛するが、平瀬礼太『彫刻と戦争の近代』吉川弘文館、2013年に詳しい。⑷本郷は内田巌と親しく交流し、1948年には内田と同様、日本共産党に入党(本郷新「一彫刻家の入党記録」労農救援会編『自由の旗の下に:私はなぜ共産党員になつたか』三一書房、1949年、pp. 103-112)。⑸ユマニテ美術研究所では漫画家の水木しげるが復員後、武蔵野美術学校入学以前に短期間ながら学んでいた。水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』講談社、2016年、pp. 118-119。⑹会議の名称の日本語訳にはばらつきがあり、「世界平和評議会」とする文献のほか、当時発行された『平和新聞』では「諸国民平和大会」と訳されている。本稿では近年の平和擁護運動研究に関する論考において採用されている名称「諸国民平和会議」を用いる。⑺パリ造形美術連盟より招待を受け、1952年12月27日に日本美術に関する講演をし「盛大」であったと翌28日付の書簡に記されている。講演内容については詳らかではない。パリでは到着早々に洋画家の荻須高徳を訪ねている。⑻長嶋祐基「平和擁護運動における討論集会の形成(1952-1953年)─特定のレパートリーに対する多様な主体間の意味づけの一致に着目して」『大原社会問題研究所雑誌』No. 709、2017年11月、p. 46。⑼西園寺公望の孫、参議院議員。1941年ゾルゲ事件に連座。1958年には中国へ家族で渡り、日中国交正常化前の民間外交を進めた。⑽マルクス主義歴史理論の構築に努め、社会運動家としても活動を展開。1947年から56年にかけ参議院議員。⑾“Congress of the Peoples for Peace Vienna December 12-19, 1952 Speeches and Resolutions”,Supplement to NEW TIMES, No. 1, January1, 1953, n.pag. 日本国内では『平和新聞』(1953 年1月1日付、1月15日付等)において大会の内容が報じられた。⑿“Congress of the Peoples for Peace Vienna December 12-19, 1952 Speeches and Resolutions”,⒁1953年1月6日付で本郷新から家族へ宛てた手紙に、プラハのホテルで二人と会ったことが記本郷新は生涯、平和美術展の運営など平和運動への積極的な参加と作品制作とを両輪として生きた。ピカソを例にいくつかの文章で語った芸術家の理想像を、本郷は身をもって体現することに邁進したのである。― 133 ―― 133 ―
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