持者であり、特に広報面で支援を行った。本展覧会についても大阪毎日新聞京都版昭和4年(1929)3月16日で取り上げた。大礼博の「民芸館」に引き続き、日本民芸品展覧会にも岩井の手厚い支援があった。展覧会に際し、出品物の一覧と解説を記した『日本民芸品展覧会目録』(注3)が発行された。会期後には、出品物の一部の写真を掲載した『日本民芸品図録』(注4)が発行された。『日本民芸品展覧会目録』によると、本展覧会の特色として、柳は以下の2点を示した。1点目は、同人の工芸に対する「直観」の正しさを示すこと。そして2点目は、そこにある出品物によって「民芸美」という新たな美の標準であることを示すことであった。この特色は展示にどのように反映されたのであろうか。2.出品物および出品者の概要『日本民芸品展覧会目録』において、出品物は339の番号が振られ、品名と産地、所蔵が記された。中には、番号99のように、「同上註皿五種」と、複数点をまとめて一つの番号を振っているものもあるため、本稿では番号一つあたりを1件と呼ぶこととする。全399件は、「陶器」、「木、竹、漆、金工類」、「民画」、「染織類」の4つに大別された。「陶器」は4分類中最多の174件を占め、このことに関して柳は「実際民芸品のうち、陶器が一番多く作られた」、さらに「茶道に養われた結果、長い間工芸美の標準が焼物に置かれてゐました」と述べた。その後の柳の蒐集活動においても、陶器は最も多くの数を占め、この時の基準が以降も続いたことが分かる。また、ここでの分類は昭和11年(1936)に開設された民芸品の常設施設、日本民芸館の分類にも通じる。出品者の内訳は多い順に、民芸美術館97件、柳66件、岩井57件であった。岩井が本展覧会により深くかかわっていたことが分かる。倉橋藤治郎(1887-1946)が「陶器」に20件出品したことからも大礼博とのつながりが見える。倉橋は大礼博で事務総長を務め、柳に出品を依頼した人物であった。倉橋は民芸運動の良き理解者であった。倉橋の出品物の多くは肥後産と筑紫産の品が18件を占める。柳らが大礼博の「民芸館」に出品する品を求めて各地を旅した際、九州で良い品が多く入手できたという記録がある。本展覧会にも、日本民芸館と柳が多くの肥後産と筑紫産の品を出品していた。二つの展覧会の出品に倉橋の関係が考えさせられる。大礼博の「民芸館」に深く関わった人物として、山本為三郎(1893-1966)の出品― 140 ―― 140 ―
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