ように統制された管理体制が設けられていなかったことが挙げられる。この状況は、明朝成立後もすぐには変わらず、初代洪武帝(在位1368~98)の時代は基本的に元代の制度を踏襲していたためか、五爪龍文の特徴も元代とほぼ同様であった〔図3〕(注3)。これが三代永楽帝(在位1402~24)の時代になると、磁器のスタイルに大きな変化が起こり、統一された複雑な龍文が出現する〔図4、5〕。この龍文の特徴は、短く丸い鼻、左右に並んだ目、上になびく髯・睫毛・鬣、後ろに伸びる2本の角があり、角には分岐した上向きの突起が付く。口の周りにはがっしりとした顎があり、口を閉じた状態でも1本の上牙が見え、下顎から首元までが平らに表現される。脚の爪は5本で、指の関節が突起で表現され、掌に肉球状の塊が描かれる。腹面は蛇腹状の鱗が描かれ、首元からは火炎状の帯が出る。本稿では、このタイプの龍文を「短鼻五爪龍」と呼ぶ。永楽年間以降は、異なる器種であっても共通した龍が表現されることから、この段階を以て龍文のデザインが固定されたと考えられる(注4)。例えば、永楽帝を描いた「明成祖坐像」の胸部には、龍文の刺繡が細かく表現されており〔図6〕、その龍の特徴は官窯磁器の短鼻五爪龍と酷似している。また明朝は、陶磁器だけでなく、漆器にも皇室専用の工房を設けており、そこで作られた堆朱の龍文には、短鼻五爪龍と共通の特徴が確認できる〔図7〕。さらに、この龍文は皇室の調度品や祭器として使用される物品に表現されることが多い点を踏まえると、短鼻五爪龍は皇帝の周囲を飾るための龍文、すなわち皇室の象徴たる龍文であったと考えられる。では、皇室の象徴たる龍文を磁器に表すことは、いかなる意味を持ったのであろうか。官窯の典型的な文様である「龍鳳文」を例に考えてみたい。龍鳳という言葉は、龍と鳳凰を描いた文様という意味の他に、明代の史料では別の意味でも用いられる。例えば、万暦『大明会典』巻194には、「宣徳8年(1433)、尚膳監は題本にて許され龍鳳の磁器を焼造した、・・・饒州[景徳鎮]に往かせ各様式の磁器44万3500件を焼造させた」(注5)とあるが、龍と鳳凰の文様ばかり造るはずはなく、さらに龍鳳の磁器に各様式があると書かれている。つまり、ここでは龍鳳という言葉が龍と鳳凰を指すのでなく、「皇室」そのものを表している。なお、龍が皇帝、鳳凰が皇后を表すという現代中国で一般的な解釈は、明初期の段階では確認できない。明代に龍鳳が皇室を意味したならば、鳳凰と対で描かれる龍は、おのずと皇室の象徴である龍ということになる。実際に明代官窯の鳳凰と対になっている龍の種類は、短鼻五爪龍しか確認できない〔図8〕。このような点から見ても、短鼻五爪龍が皇室― 150 ―― 150 ―
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