鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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く、これらは西アジアや東南アジアで好まれた器形であった(注9)。さらに、明代官窯の龍文は雲と描かれることが多いが、長鼻三爪龍の背景には「番蓮文」か、陸地が描かれない「波涛文」が表現されている。番蓮文は西方由来の植物文様であり、陸地がない海は広大な海原を彷彿とさせるため、共に異国風のモチーフを意識したと考えられる。そのように見ると、上に向かって巻く象のような鼻も、当時の東南アジア地域で好まれた聖獣に表現された鼻と類似している〔図11〕。これらのことから、長鼻三爪龍は皇室の象徴たる短鼻五爪龍と異なり、異国情緒にあふれた、諸外国へ下賜する龍文であった可能性が考えられる。明朝政府は諸外国に朝貢を求め、その見返りとして彼らが求める物品を下賜していた。とくに、景徳鎮で作られた青花(青い絵付けを施した磁器)が好まれており、宣徳9年(1434)『西洋番国志』と正統元年(1436)『星槎勝覧』には、暹羅国(Siam)、舊港(Palembang)、満剌加国(Melaka)、龍牙加貌(Lingga)、瓜哇国(Java)などの国が青花を求めていたと記されている。青花は元代の景徳鎮で開発されて以降、中国でしか造られない特別な交易品として、多くの地域で珍重されていた。したがって、元朝に代わって中国を統治する明朝政府が、諸外国の支持を得て朝貢圏を拡大するためには、良質な青花を用意することが必須であった。このことは、明朝政府がわざわざ御器廠を設け、良質な青花を生産させた大きな要因になったと考えられる。では青花で龍を表現したことは、いかなる意味を持ったのであろう。そもそも龍は皇室専用の文様となったはずだが、明朝政府は意図的に様々な種類の龍文を作り出し、臣下への下賜などに用いていた。『明史』巻67、「輿服3」には、「『大政記』によると、永楽以後、宦官が帝の左右におり、蟒服を必ず用い、形式は曳撒[戎装の一種]であり、蟒を左右に刺繍する。・・・次は飛魚で、入朝する侍従のみがこれを用いる」(注10)とあり、皇室は短鼻五爪龍を用いるが、宦官や大臣は短鼻四爪龍の「蟒」、その下の者には有翼魚龍である「飛魚」〔図12〕の使用が許された。明朝の統治理念に、国を1つの家になぞらえる「天下一家」という言葉があり、実際に皇室が用いるものを臣下に下賜することで、擬似的な家族関係を演出していた(注11)。これは龍文にも適応され、細部を変えることで格を設け、それに見合った臣下に下賜することで、臣下に対する親愛の意を示しつつ、儒教的な階級秩序を作り上げたと考えられる。永楽帝はさらにこの思想を諸外国にも広げ、世界を1つの家になぞらえる「華夷一家」を実現しようとした。この際、諸外国が求める青花、それも皇室直轄の官窯製品に龍文を描いたことは、大いに効果的であったと考えられる。さらに、青花に描く龍文を下賜先の国が用いるデザインに近づけようとした結果、異国風― 152 ―― 152 ―

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