の残党であった北元を滅ぼして以降、周辺にいたモンゴル系有力部族から自分たちの統治権を維持してほしいという請願が届いた。彼らの正統性は、あくまでチンギスハーンから統治権を得たことであり、明朝へ帰属する意志は弱かった。この際、明朝と周辺諸部族との交渉役を担ったのが、従来モンゴル系部族の信頼が厚いチベット僧であった(注14)。世界帝国を目指す永楽帝にとって、周辺諸民族を帰属させることは悲願であった。そこで永楽帝はチベット仏教勢力を懐柔するため、青海や東北地域などで寺院を建立した(注15)。さらに永楽16年(1418)には、チベット仏教を保護するための「皇帝勅諭」まで発している(注16)。仏教の庇護者である転輪聖王としての役割を元朝から継承し、チベット仏教勢力への支持と理解を様々な形で示したのである。磁器などの調度品にチベット要素を取り込んだのも、そのような政策の一環として位置づけられる。なお、宣徳帝はチベット仏教を信奉していたという説もあるが(注17)、果たしてチベット仏教を正しく理解していたのであろうか。これに関しては具体的な史料がないため、官窯磁器の蓋に書かれた文字から検証を試みたい(注18)。〔図18〕の5つの文字は、チベット式の梵字である蘭札体で、それぞれ仏の尊格を表す種字を書いたと考えられ、この蓋全体で「金剛界五仏」を表していると推測できる。つまり、中央の大日如来、東方の阿閦如来、西方の阿弥陀如来、南方の宝生如来、北方の不空成就如来である。実際にこの図では、中央がhūで阿閦如来を指し、下がvaで大日如来を指す。後期密教では阿閦と大日が入れ替わる例もあるため、ここまでは問題がない。だが、上がhrīと書かれており、阿弥陀如来(hrī)のがに置き換わっている。また左はāと書かれており、もし不空成就(ā)を指すのならではなくである。さらに、右の?aは何の種字を指しているかわからない(宝生如来ならtrā)。これらは主に音を表す仰月点を余分に打っていることによる誤字であり、種字を正しく表現するのではなく、文字のデザインを重視した結果だと考えられる。仏を象徴する種字を疎かにしていることから、宣徳帝や官窯磁器の設計者たちがチベット仏教を正確に理解しようとしていたとは考えにくい。ましてや、このような磁器をチベット僧に対する贈り物にした可能性は低いだろう(注19)。むしろ皇帝自身が、表面的ではあるがチベット仏教に対する理解を示し、転輪聖王の役割を兼ねる皇帝の多面性を自認し、周囲にアピールするためのツールとして、官窯磁器にチベット要素を取り入れたと考えられる。― 154 ―― 154 ―
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