鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
167/602

注⑴林巳奈夫『龍の話 図像から解く謎』(中央公論社、1993年)、池上正治『龍の百科』(新潮社、おわりに以上のように、明代官窯の龍文は種類によって異なる象徴的意味が付与されていた。その背景には、永楽帝以降の明朝皇帝が抱いた理想、すなわち伝統的な儒教秩序に基づき、正統な統治者として中華の威儀を正しつつ、仏法の守護者を兼ねた聖人皇帝として天下をあまねく徳治するという想いがあったと考えられる。莫大な国費を投じて造られた官窯の磁器は、単なる調度品や奢侈品などではなく、国家統治を円滑に行うためのツールとして重要な役割を担っていたのである。官窯の磁器は、一人の芸術家が生み出した作品ではないが、明朝政府が国力の粋を集めて造り上げた知識と技術の結晶であり、国家としての思想や理念が如実に体現されていたのである。したがって、官窯磁器に込められた象徴的意味を深く読み解いていくことで、文献史料には記録されない歴史の様々な側面を垣間見ることができる。今後は龍文以外の文様についても、広く考察を進めていきたい。2000年)。⑵一、蒙古人不在禁限、及見当怯薛諸色人等亦不在禁限。惟不許服龍鳳文。龍謂五爪二角者。⑶拙稿「明初期における官窯体制の変遷と御器廠の成立年代に関する考察」(『中国考古学』19、2019年、195~212頁)において、元代は官が磁器を必要とした際、民間の窯に委託生産を行っており、明代洪武年間もそれが継承されていたことを指摘した。⑷前掲注⑶の拙稿において、窯跡の遺物の出土状況と文献史料の内容を照合した結果、永楽帝が即位した1402年に御器廠が成立した可能性が高いと結論付けた。つまり、官窯に厳格な管理体制が敷かれるようになったのと、龍文が固定化されたタイミングは、ほぼ同じであったと考えられる。⑸宣徳八年、尚膳監題准焼造龍鳳瓷器、・・・往饒州焼造各様瓷器四十四万三千五百件。⑹『明史』巻47、「礼志1」に、「明太祖[洪武帝]は初め天下を平定し、他の職務はまだ行う暇がないうちに、まず礼・楽の二局を開き、広く耆儒[年長の大儒者]を集め、役所を分け儀礼や音楽を研究させた(明太祖初定天下、他務未遑、首開礼・楽二局、広徴耆儒、分曹究討)」とある。⑺泰古二皇、得道之柄、立於中央、神与化游、以撫四方。⑻『淮南子』巻3、天文に、「毛羽のある者は、飛行の類であるため、陽に属す。介鱗のある者は、蟄伏の類であるため、陰に属す(毛羽者、飛行之類也、故属於陽。介鱗者、蟄伏之類也、故属於陰)」とある。⑼中国国外で生産されたガラス器や金属器の影響を受けた器形であり、黄蘭茵主編『適於心 明代永楽皇帝的瓷器』([台北]国立故宮博物院、2018年、91頁)では、これらの器形が永楽帝の対外交流に関わった器物であると紹介している。⑽按大政記、永楽以後、宦官在帝左右、必蟒服、製如曳撒、繡蟒於左右。・・・次則飛魚、惟入侍― 155 ―― 155 ―

元のページ  ../index.html#167

このブックを見る