鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
17/602

不明であるため、対象物の彩色として無難なものを選んだにすぎない。色の問題は将来の研究を俟つところが大きいが、以上のような考察に基づき、全体のバランスをみつつ、徐々に彩色を進めていった。最後に残るのは各図像の輪郭を引く作業だが、トレース図で示したように、明確な部分と推定部分がある。このため明確な部分については原作に合わせて色の濃さや輪郭をはっきりとさせ、墨で輪郭を括っている部分については、濃い目の墨でこれを表現した〔図6〕。3 画題についてまず絵画様式の源流について概略すると、中国出土の遺物中でも、山東省臨県の北斉崔芬壁画墓(551年)の人物屛風壁画は、ひょろりと長い樹木の表現はもとより、人物と樹木、山岳の組み合わせが薬師如来像の台座画と驚くほど類似した例として注目される。特に同墓の北壁西側に描かれた人物は、頭部背後から二股の樹木が伸びる点、褥を向かって左方からの斜め俯瞰位置で捉える点、左右に奇怪な山岳を配するところまで図像の要素が一致しており、台座画の様式的な源流として最も参考になる〔図7〕。北斉崔芬墓の人物屛風壁画は壁画について竹林七賢図と栄啓期を主題とすることから南朝の墓室壁画に倣っていると指摘されており、ここから薬師如来像の台座画にもまた南朝梁時代の美術影響を指摘できるだろう。次に画題についてだが、山岳に挟まれるようにして頭まで袈裟を被った僧侶が禅定している姿により、鶏足山で入定した摩訶迦葉と考えられる。摩訶迦葉は釈迦十大弟子の一人で、釈迦如来の糞掃衣(袈裟)を弥勒如来に渡す役割を持っている。その弥勒如来は、釈迦如来が涅槃に入った後、56憶7千万年を経て地上に現われる仏であり、悟りを開いた後に3回にわたって説法を行い(三会説法)、全ての衆生を救うという。『阿育王経』によると、摩訶迦葉が糞掃衣を伝えるため鶏足山に入ったところ、山は自然と3つにわかれ、その間に草を敷いて禅定に入ったという。ここで摩訶迦葉は釈迦如来から渡された糞掃衣を頭から被るのだが、これは糞掃衣に込められた神通力によって遠い弥勒如来の世界まで肉体を保つことができるためである。また摩訶迦葉の身は羅刹(鬼神)が守り、天の花で覆われていたという。さて、それから56憶7千万年が過ぎる。『仏説弥勒大成仏経』によると兜率天の弥勒菩薩は地上へ向かい、翅頭末という国のバラモン夫妻の子供として生まれた。弥勒菩薩の身長は32丈(約97メートル)あり、世の苦しみと無常を感じて出家する。花林― 5 ―― 5 ―

元のページ  ../index.html#17

このブックを見る