鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
173/602

草文は、形式化されたもので、上帯・下帯・乳郭、撞座に装飾されている。このような形式的な唐草文は、804年(韓国中央博物館所蔵)や904年(大分県宇佐八幡宮所蔵)など、数多くの統一新羅鐘で確認することができる。そして11世紀の高麗鐘で見られる唐草文は、1)写実的なもの、2)形式的なものの二つに分けられる。1)と2)の他、956年・1011年・1019年の高麗鐘では、写実的な唐草文から変形した、3)短く丸い蔓でできた形式的な唐草文を確認することができる(〔表1〕11・12世紀の年代が明らかな高麗鐘を参考)。2)の形式的な唐草文は、1032年の高麗鐘(山口県下関市の住吉神社所蔵)や11世紀の高麗鐘(広島市不動院所蔵)でみることができ、その形状から、2-1)の一本の細い蔓でできた線唐草文、2-2)の二本の蔓でできた立体的な鉤勒唐草文に細分することができる。3)の唐草文は、既存に見ることができない新出の唐草文で、11世紀前半から半ばまで、30年間の限られた期間に良質の高麗鐘で集中的にみられる。こうした3)の唐草文は、2)の形式的な唐草文に近く、1011年の高麗鐘(島根県松江市の天倫寺所蔵)・1030年の高麗鐘(大阪鶴満寺所蔵)・11世紀前半の高麗鐘(兵庫県加古川市の尾上神社・福岡県朝倉郡の円清寺)などで確認することができる〔図1〕。12世紀の高麗鐘は、年代が明らかな例が少なく、鐘身が11世紀の鐘より小さくなる。その代表的な例は1196年の高麗鐘(東京国立博物館)・12世紀半ばの高麗鐘(静岡県久遠寺)である。前者の鐘は、胴体に飛天が飾られ、上帯・下帯、乳郭に唐草文が表現されている。下帯の唐草文には、10・11世紀の鐘ではみることができない一本の太い蔓でできた鉤勒唐草文が施され〔図2〕、1117年の崔継芳・1152年の崔允儀・1159年の王冲の墓誌銘や12世紀半ばの高麗青磁のそれらと似ている。後者の高麗鐘(久遠寺所蔵)の鉤勒唐草文は、1152年の崔允儀妻の墓誌銘で見られる鉤勒唐草文と、形や進行の方向が類似し、同じ時代を感じることができる。こうした高麗墓誌銘における鉤勒唐草文は、1117年の崔継芳の墓誌銘からみられはじめ、12世紀の半ばや後半で多くみられ、13世紀に一本の細い蔓でできた唐草文に変わる。このような高麗鐘・墓誌銘などで見られる11・12世紀の唐草文は、平安後期の鐘・絵画(『源氏物語絵巻』・『紫式部日記絵巻』・『伴大納言絵巻』)、瓦などでみることができ、高麗の唐草文のモチ-フや表現が平安後期の美術に受容・変容されていることが分る。― 161 ―― 161 ―

元のページ  ../index.html#173

このブックを見る