2.平安後期の美術で見られる高麗鐘の唐草文1)鐘日本の鐘の歴史は長い。最古の妙心寺鐘で唐草文をみることができる。これは、蓮花唐草文で、顎面・縁に唐草文を飾る新羅の文様の構成の方式や北九州の豊前田河郡の天台寺の遺跡から出土した軒丸瓦に見られる蓮花文が統一新羅のそれと似ていることから、統一新羅の鐘の影響で製作されたと考えられる(注2)。平安時代には、977年から1160年まで約200年の間に、紀年名をもつ鐘がほぼなく、鐘の製作について具体的な状況を把握することができない。こうした状況で、日本鐘に珍しい唐草文が施された平等院の鐘の登場は、平安後期鐘の製作や文様などを明らかにするために、重要な意味をもっている。こうした平等院鐘の上帯・下帯には唐草文が装飾されている(注3)。これらは、平安や唐・宋代などの日本・中国の鐘に文様がほぼなく、特記すべき現状として捉えることができる。この平等院鐘の唐草文は一本の太い蔓でできた写実的な鉤勒形で〔図3〕、1011年の高麗鐘と11世紀前半の高麗鐘(福岡県志賀海神社所蔵)のそれと似ている〔図4〕。こうした鉤勒唐草文は、高麗時代の鐘や青磁、墓誌銘などで、11世紀の前半から12世紀の後期までの約150年間に流行し、①11世紀の前半から11世紀の半ばまでの一本の太い蔓でできた鉤勒唐草文 ②12世紀の前半から12世紀の後半までの細い二本の蔓でできた鉤勒唐草文という二つに区分される。①と②の間の11世紀半ばから11世紀後半までには、①の鉤勒唐草文を省略した一本の細い蔓でできた唐草文が見られる。②以後の13世紀にも一本の細い蔓でできた線唐草文を確認することができる。②の12世紀の前半から12世紀の後半までの細い二本の蔓でできた鉤勒唐草文は、崔継芳(1117)・崔允儀(1152)・王冲(1159)の墓誌銘などの高麗の墓誌銘でみることができる。平安後期の鐘における唐草文は、廃世尊寺鐘(1160年)・玉置神社鐘(1163年)・徳照寺鐘(1164年)など、12世紀後半で集中的に見ることができる(〔表2〕 12世紀の年代が明らかな平安後期鐘)。この中で、徳照寺鐘(1164年)で見られる唐草文は立体的な鉤勒唐草文で〔図5〕、そのモチーフや表現が、高麗の崔継芳の墓誌銘(1117年)や12世紀前半の青磁瓦のそれらと似て〔図7、16〕、高麗時代の鉤勒唐草文が平安の後期の鐘の製作に受容されていることが分る。― 162 ―― 162 ―
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