この唐草文は、13世紀の鎌倉の常楽寺の鐘(1248)と鎌倉建長寺の鐘(1255)でも見ることができる。前者の唐草文における進行方向は左辺で、蔓は一本で、その上帯・下帯に二本の蔓でできた立体的な葉の文様が施されている。後者の唐草文は12世紀半ばの二本の蔓でできた鉤勒唐草文で、そのモチーフや表現が、崔允儀の妻(1152)・王冲(1159)の墓誌銘のそれらと似て、12世紀の高麗鐘で見られる鉤勒唐草文の影響が13世紀半ばまで及ぼしていることが分る。こうした鎌倉地域で作られた13世紀の鐘の多くは、河内国丹南(大阪府南河内郡狭山町)の出身である物部氏によって作られた。物部氏が奈良の鋳造職人と密接な関係であることや(注4)、平安後期の報恩寺鐘におけるA型及びB型の湯口系(鋳造の際、空気を抜くために湯を流れ込ませる所)が、中国鐘にはほとんど見られなく、1011年の高麗鐘(天倫寺所蔵)の基本的な湯口系であることから(注5)、鎌倉地域の鐘が、奈良との繋がりが深い物部によって、高麗鐘の影響で製作されたことが分る。即ち、物部氏によって製作された新羅・高麗様式の鐘が関東へ拡大されたと見て取れる。2)絵画平安後期は、仮名で書かれた和歌や物語、絵巻が数多く作られていた。これらの中で、『源氏物語絵巻』を始め、『紫式部日記絵巻』・『伴大納言絵巻』などの絵巻には造形や色がうまく表現され、当時の文化や美術における特徴と意義、文化交流などを伺うことができる(注6)。特に『源氏物語』の桐壺の巻には、桐壺帝が、第二皇子(のちに光源氏)の身分を隠し、彼を鴻臚館に泊まっている高麗の観相に行かせ、高麗の観相に彼の将来について意見を聞き、彼の臣籍を降下させ、彼が光源氏になったことや第二皇子が高麗の観相と漢詩を読み交わし、贈物を受け取っていることなどから、『源氏物語』の製作時期である11世紀に平安後期と高麗が緊密な文化交流が行われていたことが分る。平安後期の『源氏物語絵巻』をはじめ、『紫式部日記絵巻』・『伴大納言絵巻』では、装飾として唐草文が描かれていることを確認することができる。『源氏物語絵巻』では、宿木二の婚礼・柏木・夕霧、橋姫の場面、『紫式部日記絵巻』では、中宮の新楽府を進講する場面、『伴大納言絵巻』では、大納言家の場面で、画中の屏風や人物の衣服に唐草文が描かれている。画中の屏風に描かれた唐草文は、『源氏物語絵巻』の宿木二の婚礼や『紫式部日記絵巻』の中宮の新楽府を進講する場面で確認することができる。前者の宿木二の婚礼― 163 ―― 163 ―
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