で見られる屏風の唐草文は、二本の蔓でできた太い蔓の鉤勒形で、蔓の上・下に咲いた蓮の花が簡略に装飾されている〔図6〕(注7)。この唐草文は、平安前期には見られなく、その形状が高麗の崔継芳の墓誌銘(1117年)や高麗青磁瓦の影響を受けた平安後期の瓦の唐草文と似ている〔図7〕。『紫式部日記絵巻』は、中宮の新楽府の場面〔図8〕や七日の夜の、公の御産養の場面でみられる女性の裳の引腰〔図9〕で唐草文が確認されている。これは6つの短く丸い蔓をもつ形式的な唐草文で、1011年の高麗鐘(島根県松江市の天倫寺所蔵)・11世紀前半の高麗鐘(兵庫県加古川市の尾上神社)の唐草文と似ている〔図10〕(注8)。こうした6つの短く丸い蔓をもつ唐草文は新出で、11世紀の前半の高麗鐘で見られ始め、平安後期の瓦や『紫式部日記絵巻』でみることができる。この唐草文が1011年の高麗鐘のそれと似て、1)13世紀と見なされている『紫式部日記絵巻』の製作の時期が13世紀よりさかのぼる可能性、2)13世紀の絵巻に11世紀の高麗様式の唐草文が描かれた可能性などがあるが、この唐草文が平安後期の瓦に多く見られることから1)の方が可能性として高い。そして『源氏物語絵巻』の橋姫・柏木・夕霧の場面と『紫式部日記絵巻』の中宮の新楽府の場面、『伴大納言絵巻』の主なきあとの大納言家の場面では、人物の服飾の文様として唐草文が使われている。『源氏物語絵巻』の橋姫の場面の唐草文は、波のような太い蔓の上・下に蓮の花が置かれ、その形状が先述の宿木二の婚礼で見られる屏風に描かれた唐草文・平安後期の瓦のそれと似て、11世紀の後半や12世紀の前半と見なされている〔図11〕。そして『源氏物語絵巻』の夕霧・柏木・早蕨などの場面で見られる唐草文は、波のような一本の太い鉤勒形で、蔓の上・下に簡略化された蓮花が装飾されている。これらの唐草文は、先述の橋姫の唐草文と比べると、より形式化が進んで、時期的に橋姫の唐草文より後である12世紀の後半と考えられる。『伴大納言絵巻』でみられる唐草文は蔓が太い鉤勒の形で、その形状が1163年・1248年の平安後期の鐘や瓦のそれと似ている〔図12〕。これらの鉤勒唐草文は、『源氏物語絵巻』の宿木・橋姫の場面で見られる唐草文より形が崩れて形式化が進み、12世紀後半・13世紀前半に製作されたと考えられる(注9)。この唐草文は二つの唐草文を上・下に合わせると、遺伝子の配列のようなパタ-ン化されたものになり、11世紀の高麗鐘(広島県不動院所蔵)・12世紀の平安後期瓦のそれと似ている〔図13〕。― 164 ―― 164 ―
元のページ ../index.html#176