鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
177/602

3)瓦日本における瓦の生産・消費は、588年前後に百済から法師・鑪盤師・寺師・瓦師(麻那文奴陽貴文・布陵貴昔麻帝彌)などが派遣され、590年代から610年代までの間に建てられた飛鳥寺(590-609)・豊浦寺金堂(603-607)・若草伽藍(607-615)らの発掘で明らかになっている(注10)。平安時代の瓦は、生産や消費の状況により、4段階に分けられ(注11)、4段階の11世紀半ばから12世紀の平安後期の瓦は、前代の文様系譜を引くものを除いて、和様化の現像で説明できない製作・文様が多く、その祖形を高麗の瓦に求めることが多い(注12)。こうした平安の中期・後期の瓦は、主に栗栖野瓦窯・池田瓦窯・河上瓦窯・森ヶ東瓦窯などで生産され、軒平瓦において唐草文が数多く装飾されている。これらの唐草文は、軒平瓦において、進行方向が左辺や右辺、左右から中央に向かう形で、作り方において蔓が一本または二本の二つのタイプがある。一本の蔓で表現された唐草文は、11世紀前半・半ばに製作され、1)既存の一本の太い蔓でできた写実的な唐草文を簡略化したもの 2)4-6つの短く丸い蔓でできているものの二つのタイプがある。1)のタイプの唐草文は森ヶ東瓦窯でみることができ、2)のタイプの唐草文は栗栖野瓦窯・池田瓦窯・森ヶ東瓦窯で確認することができる。二本の蔓でできた唐草文は、鉤勒の立体的な形で、(10世紀前半)・12世紀前半や半ばに作られ、河上瓦窯で集中的に見られる。平安後期の瓦において、具体的な消費の状況は、1)奈良興福寺食堂 2)京都尊勝・寺円勝寺比定地 3)京都六波羅密寺本堂 4)京都法金剛院境内などの代表的な遺跡で伺うことができる(注13)。これらの遺跡の中で、蓮唐草文を省略した、一本の蔓でできた唐草文は、11世紀後半・12世紀前半の興福寺・薬師寺・法成寺などの遺跡で数多く見ることができ〔図14〕、11世紀前半の高麗鐘のそれと似ている(注14)。そして一本の蔓に4-6本の短く丸い茎でできている瓦の唐草文は、尊勝寺・円勝寺・ 法勝寺の遺跡で出土し、伸びていく方向が右辺である〔図15〕(注15)。この唐草文は、六勝寺の造成時期である11世紀後半から12世紀前半にかけて作られ、1011年の高麗鐘(島根県松江市の天倫寺)や11世紀前半の高麗鐘(神戸市の尾上神社)などの唐草文と似ている〔図10〕。二つの蔓からなる鉤勒唐草文は、尊勝寺・遠勝寺の遺跡から出た瓦で見られ、その― 165 ―― 165 ―

元のページ  ../index.html#177

このブックを見る