鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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伸びていく方向が左辺(上部)・右辺(下部)で、崔允儀妻の墓誌銘(1152年)における唐草文の形や進行方向と同じである。これらの鉤勒蓮唐草文は、全羅南道康津郡の大口面の沙堂里の青磁瓦でも確認することができ〔図16〕、尊勝寺・遠勝寺の瓦における蓮唐草文の淵源を高麗青磁瓦に求めることができる。その他、平安の後期には、蓮唐草文の先端の蓮が3つに分けられている新しい唐草文が尊勝寺・遠勝寺の遺跡でみられる〔図17〕。これは、12世紀の前半から半ばにかけての、二つの蔓からなる鉤勒の形で、12世紀の高麗の墓誌銘・青磁でも確認することができる。おわりにアジアの美術において唐草文は、3世紀頃のインドの彫刻で見られ始め、徐々に東に伝えられ、中国・韓国・日本の仏教の文様として長く使われていた。韓国鐘において唐草文は、8世紀から19世紀まで、1100年以上みることができる。その中で11・12世紀の高麗鐘の唐草文は、その形状から1)既存の統一新羅鐘を継承したもの、2)当時に新出されたものなど、多様でなお素朴・モダンな表現が高麗時代の美術の特徴やレベルの高さを示している。こうした11・12世紀の高麗鐘の唐草文は、平安後期の美術に影響を及ぼし、平安後期の鐘・絵画・瓦などでみることができる。平安後期を代表する平等院鐘に装飾されている唐草文は、1)奈良・平安前期にはほぼ無く、12世紀の後半の平安後期に集中的に見られること、2)11世紀前半の高麗鐘で見られる一本の太い鉤勒唐草文と似ていることから、平安後期の鐘の製作においての高麗鐘の唐草文の受容・変容を伺わせる。『源氏物語絵巻』・『紫式部日記絵巻』などの平安後期の絵画においても画中の屏風・衣服の飾として高麗の唐草文を確認することができる。画中の屏風の唐草文は、『源氏物語絵巻』・『紫式部日記絵巻』でみることができる。前者の宿二の場面での唐草文は、11世紀の高麗鐘の唐草文とその影響を受けた平安後期瓦のそれと似ている。後者の中宮の新楽府の場面での唐草文は短く丸い蔓をもち、その形状が11世紀前半の高麗鐘のこれと類似している。画中の衣服の唐草文は、『源氏物語絵巻』(橋姫・柏木・夕霧)と『伴大納言絵巻』の登場人物で確認することができる。これらの唐草文は、様式化された線唐草文で、上・下の唐草文を合わせれば、遺伝子の配列のようにパターン化された文様で、11世― 166 ―― 166 ―

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