鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
184/602

⑯写真家・後藤敬一郎の活動についての研究研 究 者:愛知県美術館 主任学芸員  副 田 一 穂1879(明治12)年創業の菓子製造販売業・青柳総本家の四代社長・後藤敬一郎(1918-2004)は、和菓子製造のオートメーション化に優れた手腕を発揮した経営者であると同時に、戦前から戦後にかけてアマチュア写真家として活躍した異色の人物である。このうち前衛写真家としての側面は竹葉丈による「名古屋のフォト・アヴァンギャルド」(名古屋市美術館、1989年)と、酒航太・中村惠一による「主観主義写真における後藤敬一郎」(スタジオ35分、2018年)という2つの展覧会を通じて紹介され、また占領期名古屋の嘱託カメラマンとしての側面は阿部英樹らによって紹介されている(注1)。だが、後藤の幅広い活動はこれにとどまらない。本研究は、青柳総本家が所蔵する後藤のスクラップブック、紙焼き、フィルム、その他エフェメラ類(以下「後藤資料」)の調査を通じて、未だ断片的な後藤の経歴の隙間を埋め、その活動の全体像を明らかにすることを目的とする(注2)。1.戦前から戦中の活動浪華写真倶楽部のメンバーとして活動した坂田稔が、1934年に名古屋へ移住したことを契機に、坂田のもとに画家の下郷羊雄や詩人の山中散生らが集い、1939年にはシュルレアリスムの影響を色濃く受けた前衛写真グループ・ナゴヤフォトアバンガルドが誕生した。ここには写真家の父を持ち戦前から詩誌を発行するなど若くして多面的に活動した山本悍右(勘助、1914-1987)の名は確認できるが、山本の4つ年下の後藤の名は見当たらない。後藤が撮影した写真のうち最も古いものの一つに、愛知商業学校を卒業した1936年の秋、宮崎旅行で現地の風景や出会った人々を情感豊かに撮影したアルバム『連続写真 宮崎海岸』がある。これを機に後藤は本格的に写真にのめり込み、翌1937年、名古屋の中村写真館の技師長だった森田菊松に暗箱撮影と暗室の技術を、また同時期に愛友写真倶楽部の成田春陽から引伸の技術を学んだ。さらに、その成田が関わっていた写真雑誌『カメラマン』(1936年10月創刊)の編集助手を務めるようになり、同誌編集長兼発行人の永田二龍、副編集長の高田皆義を知る。この頃から後藤は作品としての写真を発表し始め、『カメラマン』誌上に寄稿や写真掲載を複数確認することができる。担当したのは主に女性ポートレート撮影のハウツー記事〔図1〕で、同年7月号の表紙を《夏手袋》が飾った(注3)。続く8月号― 172 ―― 172 ―

元のページ  ../index.html#184

このブックを見る