と9月号には写真論を寄せ、シュルレアリスムを意識した写真を添えている(注4)〔図2〕。このように誌上ではあくまで女性ポートレートの写真家であった後藤は、当時を「女性モデルを一ひねりも二ひねりもして、新しい写真のあり方を考えてきた」(注5)と振り返る。1941年8月20日、後藤は中区岩井通にゴトウ写真技術の店を構え、商業写真や報道写真の撮影、DPEを行なうようになる〔図3〕。永田二龍と成田春陽の連名による開店挨拶状には、「まさかアノ鋭い感覚の所有者、アノ神経質的な技術にこだわる人たる君が、他人の撮影したフイルムを現像したり、そのフイルムによって作画したりする無趣味な、気骨の折れる事業に従事しようとは思わなかった。[…]要は君が技能報国ということに目覚められた実現である」とある。すでにこの年4月には、日本のシュルレアリスムの理論的支柱であった瀧口修造が治安維持法違反の嫌疑で検挙され、時代は自由な芸術活動を許容し得なくなっていた。太平洋戦争開戦以降の後藤の活動は、当然国策に沿った戦時色の強いものとなった。遅くとも1943年には、後藤は港区六番町の名古屋市工業指導所内に設置された日本報道写真協会中部支部で仕事をするようになった。同協会は内閣情報局が1941年12月に東京、大阪、名古屋のプロ・アマを問わない写真家の団体として結成したものである。ここでの後藤の大きな仕事には、『大同製鋼株式会社:生産と生活の記録』(1943年12月)と『禅』(未公刊)が挙げられる。前者は大同製鋼株式会社(現・大同特殊鋼)附属の道場や学校、養成所、寮等での少年工の生活を記録した写真集で、企画段階のレイアウトや撮影報告表も残されている。報告表の書式に支部の名と並んで印字された名古屋情報写真協会の活動は詳らかでないものの、1942年2月のシンガポール陥落を祝う祝賀行事写真のレイアウト〔図4〕や、同年7月刊行の写真集(注6)に、同協会の名を見ることができる。一方、報道写真集『禅』は後藤が1943年元日から福井県の永平寺に連日泊まり込んで撮影したもので、鈴木大拙の解説を付して出版する予定だったが、版元が戦災にあい頓挫した(注7)。また、財団法人写真協会出版部と報道写真編集員一同の連名による1943年7月23日付の後藤宛依頼状が残されている。これは『報道写真』(『フォトタイムス』と『カメラアート』を統合して内閣情報局が発行したもの)で「決戦下の衣料問題をとりあげ」るべく、一枚のモンペを東京から全国各地方にリレーする組写真「モンペ日本をゆく」の、名古屋での撮影担当を後藤に依頼する内容である。さらに、名古屋市長佐藤正俊から日本写真感光材料統制株式会社社長宛の1945年3月付「写真感光材料指定消費者指定(定期配給)要望書」の下書きが残る。名古屋市工業研究所の写真技術係が陰極像オシログラフの写真― 173 ―― 173 ―
元のページ ../index.html#185