鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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撮影を行うため配給を要望するとあり、後藤が日本報道写真協会中部支部と市の仕事を同時にこなしていた様子が窺える。なお、この時期のネガの多くはゴトウ写真技術の店のネガ袋に収められているが、一部に名古屋文化写真協会と印字された封筒が見られる。同協会は住所がゴトウ写真技術の店と同一なため、1944年に戦時統制を受け廃業した店を、後藤はどこかの時点で改称したものと思われる(注8)。この間、前衛写真家としての活動は基本的に休止しているが、かろうじて青憧社への参加に趣味的な行動が垣間見える。写真グループ青憧社は、1938年に山本悍右が吉武源雄らと結成し、1941年には坂田定三(内海薫)らを含む15名の同人と2名の会友を持つまでに成長した。同年3月より1942年8月まで機関誌『Carnet bleu』を少なくとも5号発行している(注9)。同誌1号には後藤の名は見当たらないため、その後のどこかの時点で後藤は同人として参加している。後藤を含む16名28点が掲載された年次不明の目録と、同人25名が列挙された1944年のDMが後藤資料に残る(注10)。グループの体裁は「青憧社は写真を楽しんでいる人達の集りです[…]グルウプとして運動しているのではありません」(注11)といった穏当なもので、実際にどのような作品が展示されていたのかを示す資料は見当たらない。2.占領期の活動終戦後の1945年11月17日付で、後藤は名古屋市総務局渉外課嘱託としてカメラマンの任に就く(注12)。この時期のネガ袋には、「Nagoya Sight-Seeing Photo Association: Foreign Section Nagoya City Office」(名古屋市観光写真協会)と印刷された定型封筒と、茶封筒にスタンプで「Nagoya Sight-Seeing Photo Club」と捺された2種が確認できる。渉外課は同協会と連携しながら進駐軍向けの展覧会を主催したり、市民向けの撮影会を企画したりと、幅広い業務に携わっていたことが後藤資料から窺える(注13)。嘱託カメラマンとして後藤が撮影した写真について、1945年10月28日の進駐軍名古屋港上陸から1947年6月頃までのプリントを貼付した台帳13冊を中心に整理、分析を行った阿部英樹は、これらの写真は「復興への活気や明るさを強調することが求められた行事のために撮影・収集された」ものが中心ではあるものの、市の嘱託カメラマンの立場でなければ撮影し得ない進駐軍の多様な姿を描き出すなど、「日本人の視点で、いち早く復興へと歩み始めていた占領期名古屋の人々や街を記録している意義は大き」く、「貴重な歴史資料」であると評価している(注14)。同じくこの時期の後藤の重要な仕事として、1946年10月の昭和天皇名古屋市巡幸の― 174 ―― 174 ―

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