鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
187/602

撮影が挙げられる。長年秘蔵されていたこれらの写真は、1989年に朝日新聞名古屋本社発行紙面で初めて公に紹介された(注15)。後藤はさらに1950年10月の第5回国民体育大会(愛知国体)での天皇皇后行幸記録撮影と献上アルバム製作を請け負う(注16)。この時後藤はすでに市の嘱託の職を辞しているため、後藤の技術や人柄に対する市からの信頼の厚さを窺い知ることができる。3.戦後の活動3.1.VIVI社1948年2月に名古屋市の嘱託を辞した後藤は、翌月家業の青柳四代社長に就任した(注17)(ただし実際には前述の1950年の愛知国体まで市の撮影委託業務を断続的に受けていたようだ)。空襲で店舗や工場を失っていた後藤は、青憧社の同人仲間だった山本悍右を頼り、「瑞穂区十六町の自宅を工場とし、店舗は中区広小路通り山本五郎商店の一角、間口1.8メートルを借り、青柳総本家の看板を掲げる」(注18)と同時に、中断していた前衛写真家としての道を再び歩み始める。その端緒となるのが、1947年に服部義文、高田皆義、山本悍右、後藤の4名で結成したVIVI社の活動である〔表1〕。その実質的な活動期間は4年ほどに過ぎないが、当時リアリズム写真全盛の写真界において、その存在は異彩を放った。同時代の新聞展評に、VIVI社展の反響が垣間見える。第1回展について新東海新聞社の川野友喜は「シュール・レアリムズム[sic.]が今日なお前衛であり得るか否かは別として、とに角ここには戦時中ひそかに息づいてきた若い精神たちの爆発がある」と好意的に取り上げ(注19)、第2回展も「同社がわが国前衛芸術における頂点としての位置づけは決定的なものとなろう」と絶賛し、「昨年の象徴的オブジェからアブストラクトへの過渡期を示し、技術的構成に努力しているがすぐれているのは「消滅する風景」である」と後藤作品を評している(注20)〔図5〕。一方、第3回展にはHのイニシャルで「後藤敬一郎の[…]アイディアは面白いが非合理的な組立と造形的構成の結合は不安で失敗でないか」と辛口の展評が寄せられた(注21)。また第4回展では、のちに後藤と共に朱泉会同人として活動することになる記者・野村博(1923-2008)が「これらの作品がいかに前衛的なものを志向しているか」「強力な実感に訴える手法で物体の新な組立てを発見しつつある」と全体を高く評価しつつも、「後藤は大胆なコラージュ「作品」を出したがそれだけのこと、いささか失望」と手厳しい(注22)。なお、第3回展には美術文化協会会員の高林靖、大辻清司(1923-2001)、徳山暉芳― 175 ―― 175 ―

元のページ  ../index.html#187

このブックを見る