が会友として参加し、加えてハンス・ベルメールの特別出品がある(注23)。会期後の『週刊朝日』に阿部展也(1913-1971)が執筆した記事に、ベルメールを除く同展出品作家らの作品が紹介されており、美術文化協会との関係が深化している(注24)。実際、メンバーは翌年から同会に発表の場を移し(注25)、VIVI社としての活動は同年第4回展を最後にその輪郭がぼやけてゆく(注26)。戦前/戦後の連続性と展開に関する議論は「前衛写真」に変わる新たな言葉を求め、瀧口は「主観」とカメラの機能に基づくリアリティとの結びつきを強調する。VIVI社のDMが戦前の詩誌『夜の噴水』の山本悍右による挿画を再利用していたように〔図6〕、彼らもまた戦前からの連続性を意識していた一方で、後藤の次のテキストが示すように、そこからの飛躍をも希求していた。 真を写すことによっては事物の再現を見るに止まり、そこから芸術的感動は生じない。従って芸術作品を制作するにあたり、このメカニズムの写真術を表現手段として持つことは科学的に様々な困難をともなうが、我々はあらゆる可能な機能をこの限界に展開せしめて、外界再現の単なる写真から前進し、対象の象徴化に努めて、純粋な芸術世界に入るべきであろう。(注29)このような議論が、のちに主観主義写真という大きな流れを生むことになる。3.2.ギャラリストとしての後藤敬一郎1952年、美術文化協会写真部会と新東海新聞社が主催する「造形写真作家展」が、青柳総本家広小路店で開催され、少なくとも大辻清司、高林靖、三瀬幸一、吉崎一人、VIVI社の置かれた当時の写真界の状況は、メンバーらは参加していないものの1950年の『写真手帖』における座談会が、如実に物語っている。阿部展也、斎藤義重(1904-2001)、末松正樹(1908-1997)らが戦前の前衛写真を懐古しつつ、そこから進んでいないと戦後の写真を批判する一方で、大辻清司、高林靖、徳山暉芳ら若手写真家は、そもそも前衛写真という概念が既に古く、作品に新たなものの誕生を見よと反論、座談会は世代間闘争の様相を呈している(注27)。この座談会を欠席した瀧口修造は、戦前にストレート写真を称揚した立場は「今も変りません」としつつ、「主観的な光画、あるいは実験的な光の構成効果というような仕事も、結局は写真の機能を通したリアリティの発見なのでこれを無視した実験は主観の空転に終って、無理な独り角力に終るしかない」との指摘を同誌に寄せた(注28)。― 176 ―― 176 ―
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