鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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両尊像を同格に安置しようとする意識が窺われる。つまり、薬師如来像の下座は、その制作当初から釈迦三尊像と同じ空間に安置されていたと考えられる。次に薬師如来像本体だが、その光背銘文には、病床の用明天皇が寺と薬師如来像の造立を発願したものの、崩御のために果たせず、その意思を継いだ推古天皇と聖徳太子が丁卯年(607)に完成させたとある。しかし先行研究において繰り返し述べられてきたように、薬師如来像は中の間の釈迦如来像と酷似しつつも、さらに柔らかさが増し、鋳造技法においても鋳掛けの多い釈迦三尊像より格段に向上している。このため、天皇勅願による法隆寺の創建を語る光背銘文は、法隆寺再建期に造作されたとする考察と結び付き、像本体も同時期に制作されたと考えるのが一般的である。これに対し、かつて大西修也氏は銘文の文字の輪郭に鏨による「めくれ」が残されたままであること、また文字の内部に鍍金が認められないことから、銘文は追刻された可能性が高いと指摘されている(大西修也『日本の古寺美術3 法隆寺Ⅲ〔美術〕』、1987)。この上で大西氏は「この薬師像の表現に、いかに新しい造形感覚が認められるとはいえ、様式上の年代観にもとづいて判断するかぎり、飛鳥彫刻の主流であった止利様式が唐風の新しい彫刻が展開しはじめる七世紀後半以降まで存在していたとは考えにくい」ものであり、「様式上からもまた鋳造技法の上からも飛鳥彫刻を代表する止利派の作品とみるほかはなく、おそらく七世紀も半ば近くに制作された」と考えられている。釈迦三尊像の造形を踏襲し、しかも7世紀中頃の制作と考えられる点は、その下座と同じであり、ここにおいて両者は当初から一具であったと判断できるだろう。上座には金堂壁画が描かれた7世紀末頃の時代様式が明確に現われており、この点で薬師如来像本体とは異なっている。上座はあくまで後に補われたものである。この時に光背銘文が追刻されたと考えるならば、その時期は同じく7世紀末頃に求められるだろう。なお、令和3年に奈良・東京の国立博物館において行われた特別展「聖徳太子と法隆寺」の作業において、下座の上面を確認したところ、ちょうど上座の下框で隠れる部分にのみ漆塗りが施されていないことを確認した。これにより下座には当初から現在と同じ規模の上座を設置する計画のあったことが知られ、薬師如来像と一具であると想定する上で大きな傍証となったことも特記しておきたい。さて、ここにおいて改めて注意したいのは、この像を薬師如来とする根拠が、光背― 7 ―― 7 ―

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