鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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原冬珉(萩原栄一、1915-1984)、板画家のサブリ・テツ(佐分銕、生没年不詳)、そして後藤という、ジャンルの全く異なる5名の作家によるグループで、発足の経緯は高橋綾子の研究に詳しい(注37)。後藤は1971年の第19回展を最後に退会するまで、毎年欠かさず出品を続けている。また、新東海新聞社の記者で青柳総本家広小路店の企画に携わった野村博も、1957年の第5回展から版画家としてメンバーに加わった。後藤資料にはこの朱泉会メンバーらの作品も含まれており、とりわけ情報に乏しいサブリ・テツの現存作品は貴重である〔図8〕。これらの活動の合間を縫うようにして、後藤はカラー写真を主軸に東京で個展を開催した〔図9〕。この時期の後藤のカラー作品を、瀧口修造や高階秀爾は絵画におけるアンフォルメル旋風になぞらえ、リアリズム写真の冷徹な写実に対抗する抽象表現として評価した(注38)。しかし当の後藤自身は「作品の造形性についてでなく、絵画的ということでいわれると戸惑うばかりだ」と、それを否定している(注39)。その後もカラーによる抽象表現を開拓し続けた後藤は、1968年、突如として再び女性モデルのヌードやマネキンを用いたエロティックな写真へと転回し、さらに70年代末からはアンティークドールの撮影へと移行する。「女性写真に個性的表現を試みた名古屋の高田皆義、仕上げ技術のベテラン森田菊松、成田春陽氏らに直接的指導を受けたことは忘れがたい」(注40)という言葉通り、女性のポートレートはある意味では後藤の出発点への回帰とも言える。実際、後藤の戦後の作品には、戦前の女性ポートレートを再利用したものが散見され、戦前に撮影したネガを組み合わせて戦後に新たな作品を制作することもままあった。そのため作品の制作年の特定は困難を極める。4.おわりに─後藤敬一郎と名古屋のアートシーンこうしてみると、後藤のキャリアにおいて最重要視されてきた戦後の主観主義写真への関与はごく一過性のものに過ぎず、むしろ戦前と戦後の制作はネガの使い回しという具体的なレベルでも連続している。また青柳の事業拡大と写真家としての活動の展開を並行して行うことで、自らの制作や発表の場のみならず、ジャンルを超えた活動の場を生み出している。画家の杉本健吉に青柳総本家の商標デザイン〔図10〕を依頼し、彫刻家の野水信を青柳総本家の顧問につけて羊羹で彫刻を作らせる〔図11〕など(注41)、周囲の美術家たちを巻き込みながら活動の幅を際限なく広げてゆく後藤は、戦後名古屋のアートシーンを牽引する稀有な才能の持ち主であった。他にも『カメラ芸術』誌の依頼で犬山・日本モンキーセンターの猿を撮影したシリーズ〈猿面〉― 178 ―― 178 ―

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