鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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注⑴阿部英樹編『占領期の名古屋:名古屋復興写真集』風媒社、2020年。⑵後藤資料の閲覧調査にあたり、青柳総本家の皆様、特に秘書室の樫原宏氏には格別の協力を賜っ H、記事名なし『夕刊新東海』1949年8月5日。 NOM(野村博)「新しい世界への出発:VIVI写真展評」『夕刊新東海』1950年12月18日。 H、前掲記事および「第3回VIVI社展DM」(1949年7月31日─8月6日、丸善三階画廊)(後〔図12〕など、注目すべき活動は多く残る(注42)。その活動の全容を一望したとき、ようやく後藤を中心とする磁場が立ち上がってくるのである。DM」(1944年12月8日─13日、丸善三階画廊)(後藤資料)。た。記して感謝申し上げる。⑶後藤敬一郎「春近し・女を写す」『カメラマン』29号、カメラマン社、1939年2月。「魔の香炉」同30号、1939年3月。「春・女性美の撮影」同41号、1940年3月。⑷後藤敬一郎「認識論」『カメラマン』36号、1939年9月、34-35頁。⑸後藤敬一郎「機械と感覚のドラマ」『フォトアサヒ』54号、全日本写真連盟、1964年9月、20-21頁。⑹永井昭編『名古屋』名古屋情報写真協会、1942年7月(後藤資料)。⑺後藤による自伝パネル、1987年8月(後藤資料)。⑻後藤敬一郎による東京都写真美術館提出履歴調書、1994年(後藤資料)。⑼山本俶生編「山本悍右年譜」『写真展シュルレアリスト山本悍右:不可能の伝達者』東京ステーションギャラリー、2001年、198-227頁。⑽「青憧社写真展出品目録」(年不詳、12月6日─10日、丸善三階画廊)および「青憧社写真展⑾同DM。⑿名古屋市役所観光事務嘱託辞令、1945年11月17日(後藤資料)。⒀後藤は「See Japan!(日本の姿・写真展)」(1945年11月24日─30日、松坂屋)を立案、多くを自ら戦前撮影した写真で構成したと述べている。前掲自伝パネル及び「See Japan!」チラシ(後藤資料)。⒁阿部英樹「「後藤敬一郎関係写真資料」における占領期名古屋の写真資料について」阿部、前掲書、13頁。⒂「地域本部ニュース:昭和天皇のアルバムに反響 後藤理事の秘蔵写真」『フォトアサヒ』219号、全日本写真連盟、1989年4月、23頁。「後藤敬一郎氏撮影の天皇の写真が新聞に」『Photographyin Japan』324号、日本写真協会、1989年3月、8頁。⒃後藤敬一郎「人間天皇と私」『青柳グループ社内報 青柳』126号、1989年1月31日。⒄青柳百年編集委員会『青柳百年』青柳総本家、1979年、24頁。⒅同書、24頁。⒆TOM(川野友喜)「VIVI社展評」『夕刊新東海』1947年11月17日。⒇TOM(川野友喜)「素晴らしき頂点:VIVI社展評」『夕刊新東海』1948年7月7日。なお記事中「今回は京都(7月)のほかに九州(9月)東京(10月)でも順次公開する」とあるが、稿者は九州と東京での開催を確認できていない。藤資料)。― 179 ―― 179 ―

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