鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ロサ自筆の絵画目録である「日本絵画蒐集品解説目録」(以下「解説目録」とする、早稲田大学會津八一記念博物館蔵)は、もともと二冊組であったフェノロサ蒐集の掛軸目録の上巻のみが伝存したもので、内表紙に「1880年12月」の年紀がある。内容と掲載作品から判断して、ここには1880年から1882年頃までの蒐集品が収録されているとみてよい(注5)。フェノロサの蒐集活動は彼が文部省の図画調査会委員を依嘱される1884年末頃まで続いたと想定されており(注6)、本目録は彼の蒐集のおよそ前半期の様相を示すものと捉えられる。フェノロサが鍛冶橋狩野家の狩野探美(1840~93)や住吉家の住吉広賢(1835~83)から伝世品を入手し、大名家や寺社から家宝・寺宝を次々と購入するといった本格的な蒐集活動を開始するのは、主に1882年の中頃以降であり、「解説目録」が収める前半期までの入手経路は、多くが山中商会や起立工商会社といった美術商からであることが目録により判明する。特に大阪に店を構えていた山中商会から何点も円山四条派絵画を入手しており、当地にて活動した森狙仙や森一鳳、西山芳園、石橋李長といった絵師たちも含まれる。フェノロサやビゲローは芳園を始めとする大坂画壇の作品を高く評価したことが知られるが、端緒は山中商会との関わりにあったのかもしれない。例えば、本目録中でフェノロサが高評価を記す円山四条派作品として、森徹山「睡狐図」(所蔵番号11.4772)〔図1〕が挙げられており、「応挙派の特色である自然的要素と絵画的要素の結合を見事に実証した」(注7)ことをその理由としている。すなわち、円山四条派としての写実性を維持しつつ、同時に筆勢を活かした表現性も発揮されていることに注目したものとみられる。フェノロサが四条派の中でも、比較的軽快な筆致を特徴とする画風を晩年に至るまで評価し続けた背景として、蒐集活動初期における山中商会を介した大坂画壇との出会いを考慮してみてもよいかもしれない。もっとも「解説目録」において、フェノロサの助言者として円山四条派作品を評価・鑑定しているのは、狩野永悳や河鍋暁斎(1831~89)、長谷川雪堤(1813~82)といった同派には直接関係のない東京の絵師たちであり、彼らからフェノロサがこの画派に対する正しい知識や絵画観を得ることは困難であった。彼が円山四条派について教えを受けた人物として挙げられるのが、当時京都における円山派の中心人物であった森寛斎(1814~94)である。森大狂『近世名匠談』の「森寛斎」の項には、フェノロサが京都に赴いたとき、政治家の丸山作楽(1840~99)を伴って一日寛斎を訪問した際に語られたという、円山四条派の歴史と寛斎自身の絵画論が記されている(注8)。フェノロサの遺著である『東洋美術史綱(原題:Epochs of Chinese and― 185 ―― 185 ―

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