鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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Japanese Art)』にも、彼がかつて京都の森寛斎の私邸を訪ねた旨が語られており(注9)、実際に山口県立美術館所蔵の森寛斎関係資料には寛斎へ手渡したフェノロサの名刺が今に伝わる。また『東洋美術史綱』によると、フェノロサは西山芳園の子・完瑛(1834~97)と大坂にて懇意にしており、さらに京都の幸野楳嶺(1844~95)とは年来の親友であったという(注10)。この他にも、「解説目録」には1880年に京都にて望月玉泉(1834~1913)に直接依頼したという「桜下水流図」(所蔵番号11.8220ヵ)(注11)について言及され、蒐集活動の最初期から円山四条派の絵師と交流を結んでいたことが確認できる。フェノロサは、漢画派を狩野永悳に学び、やまと絵を住吉広賢に学んだように、円山四条派の成り立ちや絵画観に関する確かな知識を、同派の重鎮たちを通して学習し得たものと推定したい。2.東京およびボストンでの「円山四条派」コレクションの展観フェノロサは1881年以降、何度か自身のコレクションを展覧会へ出品しており、なかには円山四条派の作品も含まれている。展覧会への出陳に際しては、彼にとって重要な作品を選定したと推察され、出品作を特定し論じることはフェノロサの絵画観を知る上で有効であろう。龍池会が1880年以降毎年開催していた古書画の展示会である観古美術会には、フェノロサは第二回(1881年)、第三回(1882年)、第四回(1883年)、第六回(1885年)の計四回に渡り自身のコレクションを貸し出しており、そのうち第二回から第四回までの三回に円山四条派作品が含まれる〔表1〕。なかでも繰り返し出品していたのが、岸駒「双鹿図」(所蔵番号11.4701)〔図2〕である。フェノロサは「解説目録」の中で本作について、意見を請うた識者全員に激賞されたことを記し、自身も「応挙も遙かに遠く及ばぬ出来映え」の「近世日本絵画中最も偉大な作品」、さらには「世界の動物画中最優秀作に数えられる」とまで書き残している(注12)。同じく本作に対し賛美の言葉を書き連ねる『東洋美術史綱』での記述には、1879年にこれを入手し、1882年から毎年開催された上野での展覧会に数回貸し出したとあり(注13)、フェノロサ蒐集品のなかでも最初期の作品であったようだ。1884年4月に木挽町旧明治会堂にて行われた鑑画会第四回例会に合わせて開催された、フェノロサおよびビゲロー所蔵の円山四条派作品展観は、フェノロサが初めて自身の同派コレクションを体系化する契機となったものとして重要であるが、残念ながら出品目録は今のところ見出されていない。断片的ながら展示品の情報を伝えるものとして、東京在住の女性画家である武村耕靄(1852~1915)の日記がある(注14)。― 186 ―― 186 ―

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