鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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銘文の「薬師像」という文言にあったことである。造形が釈迦如来像と酷似し、その印相も7世紀の如来像に通有のものであることを考えれば、像本体から尊名を導き出すことはできない。その上で、下座と像本体が本来一具であり、下座に描かれたのが弥勒下生の物語と考えられることからすれば、ここに本来は弥勒如来像として制作された可能性が生まれる。薬師如来という現在の尊名は、現金堂の再建期において、用明天皇が自らの病気平癒のために法隆寺の建立を発願したとする銘文を追刻するにあたり必要とされたもので、制作当初からではないと考える。では本来、この像は何を目的として制作されたのだろうか。多くの推論を重ねるが、この像が7世紀中頃の制作と考えられること、また制作当初から釈迦三尊像と同じ空間に安置されていたと考えられること、その釈迦三尊像は聖徳太子の追善像であることからすれば、聖徳太子の長子である山背大兄王の追善こそ、造立目的として最も考えやすく、魅力的である。金堂内に台座の高さを揃えて安置されていた「弥勒如来像」こそは、太子の薨去後、その長子として天皇の候補となりながらも果たさず、蘇我入鹿による襲撃を受けた後、皇極天皇2年(643)に斑鳩寺において自ら命を絶った山背大兄王の追善像と考えるならば、釈迦三尊像の造形様式をよく踏襲していることも理解できるだろう。まとめ本稿では台座画の調査と復元研究にはじまり、確認された図像に基づき、台座画のテーマとそこから考え得る薬師如来像の制作背景について考察してきた。金堂の薬師如来像については、その造形様式に基づく年代観や光背銘文との関係性について、これまでに多くの議論が重ねられてきたが、新たな視点として台座画を取り上げた次第である。法隆寺がもともと聖徳太子の私寺として創建されたことからすれば、太子をはじめとした上宮王家の供養が尊像の造立においても意図された蓋然性は高く、ことに非業の死を遂げた山背大兄王に対してこうした尊像が捧げられた可能性は充分想定できるのではないだろうか。本稿において述べた試論はあくまで論証には至らないものであるとしても、薬師如来像の下座に描かれた絵画内容を読み解くことで、新たな視点がもたらされることは示し得たかと思う。― 8 ―― 8 ―

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