鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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の岡本豊彦、その門人の塩川文麟、景文門弟の横山清輝や西山芳園、その息子の西山完瑛といった、19世紀四条派の絵師たちの作品が展示されていたとみられる(注16)。フェノロサ亡き後も、ビゲローを中心に近世後期四条派の重要性は意識されていたとみられ、岡倉天心(1862~1913)が館の中国日本美術部長に就任した翌年の1911年には、西山芳園を単独で取り上げた特別展まで開かれている(注17)。当時の展覧会の宣伝文には、本展の意義としてボストン美術館所蔵の芳園画の重要性を挙げ、「当館所蔵品の3分の2だけを取り出しても、世界のいかなる芳園コレクションより質量ともに上回る」と豪語するが、実際に当時ボストン美術館には芳園画が60点以上も所蔵されており、あながち過言とはいえない(注18)。以上をまとめれば、フェノロサは日本滞在時には、自身の円山四条派コレクションのうち歴史的に重要度の高い絵師の作品を用いて、正統的な流派観を示したり他者から評価を得られた作品の技術面を見せようとしているのに対して、母国へ帰ってからはより筆致が軽快で西洋の人々にも馴染みやすく、さらには自らの絵画嗜好にも合う、19世紀以降の四条派や大坂画壇の絵師たちの作品を紹介する方向へ転じたとも考えられる。西洋の読者に対して日本の美術史観を伝えるために編まれた『東洋美術史綱』は、まさにこの両者の方向性が混在する書物と捉えても良いのかもしれない。3.『東洋美術史綱』にみるフェノロサの円山四条派観フェノロサの遺著『東洋美術史綱』は、1908年に急逝した彼が残した日本と中国の美術史に関する講演原稿を、妻メアリーが整理し1912年に出版したものである。そのため、フェノロサが本著にて語りかける相手はあくまで西洋世界である。ゆえに本論での狙いも、日本所在の名品を解説したり細かな歴史的事象を叙述したりするより、むしろ西洋人にとって馴染みやすい画風の作品や米国所在の実見が容易な作品を用いて、いかに東洋美術の素晴らしさを伝えるか、さらには自らが集めた作品や蒐集に協力したビゲローおよびフリーアのコレクションを織り交ぜることで、いかに自身の鑑識眼が優れているかを主張することにあったと推測される。『東洋美術史綱』において、円山四条派は「京都における近代庶民美術」として一章が割かれているが(冒頭にわずかに南画や南蘋派を含む)、これは他の近世日本美術では江戸狩野派と琳派が合わせて一章、また浮世絵が一章のみであることを考えれば、きわめて特別な扱いと言ってよい。ここでフェノロサは、円山応挙から始まる画派の流れを、各流派の祖となった重要絵師たちをなぞりながら近代まで解説しており、説明には自身が集めた作品を多くちりばめている〔表2〕。これらをみると、円― 188 ―― 188 ―

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