鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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山四条派を代表する写実的かつ謹直な画風のものだけではなく、略筆のより絵画的な作品も一定数選んでおり、このような側面もフェノロサは同じく評価していたことが読み取れる。それは、円山四条派の持つ叙情性も合わせて主張することが、西洋世界に向けて同派を紹介するのに最善の方法であると彼が考えたためとも捉えられる。西洋美術がすでに得意とする高度な写実性を強調するより、筆致の巧みさや色彩の豊かさ、モチーフに宿る詩的感覚を紹介する方が、同派に対する理解・好感を得やすいと思い至った可能性は十分にあるだろう。おわりに─フェノロサの円山四条派観の継承1880年代にフェノロサが先導した日本画の改革は、一般に狩野派への影響において語られることが多いが、一部の円山四条派の画家へも彼の言葉は届いていた。京都で活躍した四条派の絵師である幸野楳嶺は、1886年のフェノロサの京都講演に感銘を受け、彼の『美術真説』を熱心に研究したことが知られている(注19)。また、ボストン美術館には、フェノロサが日本画に新たに求めた理想の実践場である鑑画会の第一回大会にて、多くの狩野派絵師たちに混じり褒賞を受けた円山派の作品が二点所蔵されている(注20)。ともに東京における円山派の大家である川端玉章(1842~1913)に師事した高橋玉淵(1858~1938)と端館紫川(1855~1921)は、第一回鑑画会にて両者ともに四等賞を受賞しているが、受賞作にそれぞれ該当すると思われる作品がボストン美術館に蔵される「栗樹秋禽図」(所蔵番号11.8208)〔図5〕および「水中群魚図」(所蔵番号11.8570)〔図6〕である。この二作は寸法と表装が全く同じであり、画題においても紫川画が海の幸であるのに対し玉淵画が山の幸を表現するなど、対の関係となっている。また、落款の位置や画面構図を見比べても、両者が互いに一双となることを意識して制作された可能性は高い。円山派の紫川と玉淵は、狩野派優位の鑑画会にて少しでも存在感を発揮しようと、このような共同制作を図ったのではなかろうか。結果として、両者はともにフェノロサの目に留まり、「他ノ諸點ニ缺ケタリト雖モ技倆愛スヘキ者アル」として四等賞を得るに至っている(注21)。ボストン美術館にまとめて収められた、数百点に及ぶフェノロサおよびビゲロー蒐集の円山四条派作品を最初に整理・研究したのは、フェノロサの跡を継いで館の学芸員となった岡倉天心であった。天心自筆の「落款・印章ノート」二冊(日本美術院蔵)と「近世画家系図ノート」(岡倉古志郎氏旧蔵、茨城県天心記念五浦美術館蔵)は、これまで東京美術学校時代のノートとみなされてきたが(注22)、正しくはボストン美術館在任中に当館の所蔵品を調査した際のものである可能性が高い。詳しい分― 189 ―― 189 ―

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