注⑴ボストン美術館所蔵の円山四条派作品について触れた先駆的な専論として、柴田就平「大坂四析は別稿に譲るが、この「落款・印章ノート」からは、款印を解読し無名の絵師を特定しようと苦心する天心の姿が垣間見える。「近世画家系図ノート」では、美術館に所蔵される絵師を流派ごとの系図に当てはめて理解しようとしており、フェノロサが目指した網羅的・系統的な美術史観を体現しようとする様が窺える。このようなボストン美術館の日本美術コレクションを体系的に理解しようとする試みは、今日の総目録編纂プロジェクトにまで受け継がれるものであり、さらに美術館がフェノロサの志を継承していく限り、今後も終わりなく続けられていくことだろう。条派の研究」(『鹿島美術研究』年報第27号別冊、2010年)がある。⑵辻惟雄他監修・鹿島美術財団編『ボストン美術館 日本美術総合調査図録』(中央公論美術出版、2022 年)⑶村形明子「ビゲロウ、フェノロサ、岡倉─ボストン美術館日本部の形成と発展(1)創設まで─」(『ミュージアム』第384号、1983年)、16頁。⑷ボストン美術館所蔵の柴田義董「王質図」(所蔵番号11.8207)はビゲローの寄贈によるが、後述の「解説目録」93番にはフェノロサの蒐集品として載る。横山華山「豊作図」(所蔵番号11.8412、「解説目録」189番)もまた同様である。⑸山口静一編『フェノロサ手稿「日本絵画蒐集作品解説付総目録」復刻・翻刻・邦訳集成』(エディション・シナプス、2020年)⑹前掲注⑷所載、山口静一「訳者序文」、179頁。⑺「解説目録」57番に次のようにある。“This shows finely the union of the naturalistic and picturesquequalities of the Okio school, which is not always as successfully achieved.” フェノロサは『東洋美術史綱』においても本図を絶賛している。Ernest F. Fenollosa, Epochs of Chinese and Japanese Art,vol. 2 (New York: Frederick A. Stokes Company, 1912), p. 174.⑻森大狂『近世名匠談』(春陽堂、1900年)、142-145頁。⑼Fenollosa, op.cit., p. 176. “Tetsuzanʼs son, Mori Kwansai, lived late to modern times, and I visited thedear old gentleman at his house in Kioto before his death in the late eighties.” これよりフェノロサが森寛斎を訪ねた時期を1880年代末とする見方が一般的だが、この記述では「寛斎が他界したのが1880年代末」であるとも解釈できる。⑾本図は「解説目録」96番のものと画題は一致するが、目録にはスケッチとあるものの本図は濃― 190 ―― 190 ―⑽Fenollosa, op.cit., p. 177. “Hoyenʼs son, Shuikei, I knew intimately at Osaka...Bairei was a dear friend ofmine for many years in Kioto.” ただし、懇意にしていたにも関わらず、西山完瑛の名をShuikeiとしているのはやや気に掛かる。なお明治 15 年(1882)8月8日には、フェノロサ、ビゲローとともに関西に赴いていたエドワード・シルベスタ―・モース(1838~1925)もまた京都の幸野楳嶺宅を訪れており、画塾の様子を見学したあと作品を贈られている。Edward S. Morse, JapanDay by Day: 1877, 1878-79, 1882-83, vol. 2 (Boston and New York: Houghton Mifflin Company,1917), pp. 260-262.
元のページ ../index.html#202