鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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⑱明治初期美術団体「美術会」の研究─曽山幸彦を中心に─研 究 者:学習院大学史料館 EF共同研究員  戸 矢 浩 子1,はじめに明治22年(1889)発足の明治美術会は、洋画や彫刻が冷遇される中でその担い手たちが結集した美術団体である。明治10年代半ばからの反欧化政策の中にあって西洋美術家の多くは教員となり、一方で画塾や研究団体を立ち上げて活動を続けていた。本稿で取り上げる「美術会」もそうした団体の一つである。明治16年1月に工部美術学校が閉校すると、画学科・彫刻学科の最後に在籍していた者が集って発足させた会で、分野を越えた西洋美術団体としては明治美術会に先駆けた存在といえよう。美術会関連資料には「美術会規則書」(以下、「規則書」と記す)や名簿などが松室重剛旧蔵資料に残され、会員や理念を知ることができるが(注1)、具体的な活動は不明である。筆者は同会を調査することで、工部美術学校廃校から明治美術会発足へと至る間の、西洋美術家の一支流の動向を示すことを研究の目的としている。その手掛かりとなるのが美術会から派生した「画学専門美術学校」である。同校は工部美術学校の教えをそのままに教授し、廃校後は曽山幸彦(大野義康)が画塾として引継いで後に大幸館となった。『洋風美術家小伝 追弔記念』「大野義康君」の項に「同窓の友人四五と相謀り美術会と称する洋画家の一団体を組織し斯道の発達を希図しその事業として美術学校を起した」(注2)と書かれたことから、美術会は画家の団体であり、美術学校の設立は同会の事業である、とみなされてきた(注3)。しかし「規則書」中の名簿記載者34名の内18名は彫刻学科の出身者であり、また後に述べるように画学専門美術学校は同会の事業とは言えない。本稿ではまず資料調査に基づき、これまで美術会の事業とされてきた活動の位置づけを提示しながら概要を述べる。次に、美術学校および大幸館に関わった曽山幸彦・堀江正章・松室重剛(注4)の作品調査にあたり、彼らの画業を追うことで、美術会の画家たちが継承し、次世代に伝えた洋画の在り様を考察する。2,美術会と画学専門美術学校、図画局について美術会「規則書」によれば、創立当初の主旨は「一致親睦シテ欧州画学彫刻学ヲ研究拡張スル」ことにあり、その活動として第一に掲げたのが「美術学校ヲ設立シ後進者ヲ誘導スルコト」、第二に展覧会の開催であった。しかし明治18年(1885)の改正― 195 ―― 195 ―

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