鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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版「規則書」(注5)では、「画学彫刻術ノ拡張ヲ謀リ会員ノ技術研究ヲ補助スル」ことを第一の目的とし、その活動として博覧会の開設を挙げ、学校設立に関する条項はない。後進の育成よりも、会員の研究・制作に有益となることを会の第一義と変えたのである。学校の設立計画が削除されるにあたっては、規則改正の直前に、会員の松室と堀江が「画学専門美術学校」(以下、「美術学校」と記す)を設置したことも理由となっただろう。同校は工部美術学校の出身者がその教授内容を引き継いだ学校として誕生した、美術会の意志を反映した存在といえるからだ(注6)。美術学校に関しては、堀江の述懐「明治時代の西洋画」(注7)により、曽山と松室との三人で設立し、当時工部大学校に勤務していた曽山が工部美術学校旧蔵の標本などを借り出して教材にしていた、という点が知られている。ただし東京府学務課に提出された「設置願」(注8)に曽山の名は記載されていない。また設置願に付されたカリキュラムから、同校が工部美術学校の教えを引き継いでいたことがわかっている。設置が認可されたのは明治17年12月末で、翌年1月10日土曜日には新聞に「画学生徒募集広告」を出した〔図1〕。この中に宣伝される「図画局」は、先の堀江の述懐によれば彼らの“研究”の場でもあった。美術会の活動目的は画学彫刻学の研究拡張であり、図画局もまた、美術会の理念を具現化したものであったといえよう。またここでは、教員ではなく「局員」を自称している。美術会の規則書と学校の設置願には図画局に関する記載はなく、三者は別の組織と考えられる。2月20日の新聞広告〔図2〕(注9)において、三者の住所が同じであるにも関わらず各々に記されていることもそれを示すだろう。この住所からはさらに、松室が美術会運営の中心にいたことをあらためて確認することができた。この住所は松室の親戚の所在地であり(注10)、堀江と曽山の住居に近く、工部大学校も同区に在る。出勤や教材運搬等の利便性も考慮した上で、学校の設置場所に選んだと考えられる。図画局の運営は厳しく、松室が明治18年10月から千葉中学校へ赴任したために美術学校も12月には閉校に至り、生徒たちは曽山が翌年1月に開いた私塾に引き取られた(注11)。この時点で美術会および図画局も麹町から引き払ったことだろう。その後美術会は明治19年6月には本多錦吉郎や浅井忠を含む会員59人を擁するまでになったものの(注12)、その後の動向は不明である。明治25年1月、曽山は病を得て急逝し、塾は堀江が受け継いで名を「大幸館」とした。館には松室も関与し、塾は美術学校の教師の経営に戻ったことになる。塾および大幸館には岡田三郎助や三宅克己・高木背水らが通い、その回顧談からも、教授内容が工部美術学校の教育に則していたことが― 196 ―― 196 ―

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