鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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知られている(注13)。明治29年に東京美術学校に西洋画科ができると、大幸館生徒も入学し、館は解散した。岡田は助教授に就任し、その後多くの画家を育てあげていく。このように、美術学校と大幸館は、工部美術学校の教育と東京美術学校の教育をつなぐ結節点となっていたのである。3,曽山幸彦および大幸館関係者の作品調査曽山幸彦や堀江正章、松室重剛をはじめとする美術会の会員たちは、アキッレ・サンジョヴァンニに師事して擦筆によるデッサンを学び、色彩的にもいわゆる“脂派”と呼ばれるアントニオ・フォンタネージの系譜には入っていない。彼らは教師を生業としたために現在確認できる作品は少ない。本研究においては曽山らの教授内容を考察するため、彼らの作品に併せて生徒作品の調査をおこなった〔表1〕。曽山は人物画を専攻し、在学中には第二回内国勧業博覧会に人物素描を出品している(注14)。曽山の石膏デッサンにはこれと同時期に描かれた作もあり〔表1/No. 2~4〕、石膏デッサンが初期の一時的な課題ではなく、人物画と並行して描き続けられていたことがわかる。曽山は画塾においてもデッサンを長年の課題とした。高木背水によれば大幸館には曽山が譲り受けてきた工部美術学校生徒の作品があり(注15)、これらを手本とするという〔表1/No. 35~42〕、まさに工部美術学校の教育を引き継いだものだった。曽山はデッサンにおいて、形を正確に写すこと、濃淡の調子を描き分けることを厳しく指導したという(注16)。「洋装少年」〔図3〕は擦筆画で描かれるが、おそらく一連の作品となる「少年」〔表1/No. 7〕を見ると、クロスハッチングで立体感や陰影が表現されている。「洋装少年」にもやや描線は残るが、陰影は濃淡で表され、描法を吸収しながら擦筆の習得がおこなわれていた様子もうかがわれる。「増上寺」〔図4〕は、工部美術学校に入学した翌年の水彩画で、御霊屋勅額門を描いている。細部は曖昧だが、建築構造を描き取って彩色することを目的としたのだろうか。門の内側が明るく明暗のつけ方は正確ではないものの、垂木に青い色を帯びさせるなど、陰を暗くしないことなどにより、明るい印象を与えている。これは予科の教師ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティの影響なのか、検討を要する。後に多くの建築物を油彩画に描くことになる曽山の、希少な初期の水彩画である。工部美術学校閉校後、曽山は工部大学校に出仕して美術学校残務取調掛となり、さらに図学教場掛兼博物掛に任じられた(注17)。曽山が旧工部美術学校の備品を管理していたこの時期に、美術学校は開校している。明治19年に大学が工科大学になると― 197 ―― 197 ―

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