鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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造家学教室詰兼博物場詰となり、学生の写生実習にあたった(注18)。その過程で制作された建築写生画については今後も調査を進める所存である。橋のある風景を描いた小品「神橋」〔表1/No. 12〕も、日光で建築写生をおこなった成果の一つだろう。「上野東照宮」〔図5〕では、建築物を細部まで描き取っている。明るく照らし出された柱の組物部分には黄・赤・青を基調とするいくつもの色が施されて輝き、朱塗りの欄干の奥には青い装束の人物が笙を奏で、外には白い鳩がそこかしこに遊ぶ。画面の中央部分に光と音と動きが与えられ、建築物の単なる記録としての絵にとどまろうとはしない意図が感じられる作品となっている。曽山は記録画的な作品を多く描く中にあって、絵画的表現を模索していた。その意識は明治23年の第三回内国勧業博覧会に出品された「武者試鵠」〔図6〕に顕著と思われる。この作品の元となるのは、弓術を記録した石版画「東郷重持弓術図」〔図7〕(注19)(以下、「弓術図」と記す)で、全9図の内、射手の所作を8図に描き、内2図は装束を付けた姿である。「武者試鵠」はこの装束姿の1図を元に描かれた。画面には射手のほかに陣幕と茣蓙が配され、内2図には幕の下に小さな花があるのみの、射手の所作の記録に徹したシンプルな図である。ところがこれを油彩画にした「武者試鵠」は雄弁である。射手は武士の象徴である桜花の下に構え、「弓術図」ではささやかにあった花は力強く生える草花となっている。支柱にぴんと張られていた陣幕は桜との間にかけられてたわみ、色紙を覗かせている。色紙には曽山の叔父で宮内省の御歌所長であった高崎正風の歌が書かれる。曽山によれば、この作品は日本の武技と文学の最高尚のものをおさめたという(注20)。「弓術図」からの変更点は背景だけではない。腕を太くして力強さを出し、顔と身体をやや正面に向かせて胴のシルエットを変えることにより、やや前傾の姿勢を強調させている。明らかに異なるのが太刀の位置で、身体の背後にまわし、前に突き出すような存在感を放たたせている。記録画から展開させ、絵画で草の根的な国威発揚を説いた作品となっているのである。「武者試鵠」は歴史画が多く描かれていた頃の作品で、展覧会では褒状を受賞した。この「武者試鵠」も明るい光を感じさせる作品である。小山正太郎は工部美術学校時代にフォンタネージの影響の色濃い「風景」〔表1/No. 34〕を描いた。曽山の学んだサンジョヴァンニの絵の特徴は、「強い光の下に置いた人物を緻密に描写し」(注21)た点にあったという。「山尾忠次郎像」〔図8〕はまさにそうした作品で、均一に塗られた濃く暗い背景の中に、人物が照らし出されている。影を明確にする部分は線で描き込み、陰影は濃淡のみで表されているわけではない。像主は工部卿・山尾庸三の父であり、像主自身の性質の反映でもあろうが、謹厳実直な作品となっている。― 198 ―― 198 ―

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