鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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ここで堀江正章の作品を見てみたい。「西村房太郎像」〔図9〕は、堀江晩年の作品である。像主の西村は堀江の勤めた千葉中学校の校長で、堀江を高く評価して支えた人物であり、安定感のある構図と穏やかな色調の中に柔らかな表情を見せている。岡田三郎助は堀江のことを、「多く三原色を用ひ、陰影にはコバルト又はオレンジを使」っていたために「コバルト先生」と呼ばれていたと語っている(注22)。しかし今回の調査では、そうした色を持つ作品には出会えなかった。これは作品が依頼画や記録画であることも理由となるだろう。松室は紫がかった明るい青で「富士遠望」〔表/No. 32〕を描いており、堀江もあるいはそうした自由な小品をものしていたかもしれない。なお岡田は、色彩については曽山ではなく堀江に学んだと語るが、陰の部分に明るい色彩を差す方法は曽山の作品にも見られ、「上野東照宮」の白鳩には青、建物にはところどころに黄色が差されている。曽山や堀江は、修行中の生徒の絵の陰影に明るい色は使わせていない。岡田三郎助の「彫刻師」〔図10〕は背景と人物に同系色が用いられ、色の濃淡で立体感や質感を表現しようとしている。油彩画が擦筆画の延長線上にあり、墨画を十分に描けなければ色は役に立たない、という曽山の教えを思い起させる(注23)。「彫刻師」は裏面に「其之九」と書かれ、人物画の一連の課題があったことをうかがわせるため、大幸館での課題のひとつとみて良いだろう。裏面に記された辻永の見立てでは明治23~4年の制作とされるが、岡田は先の回顧談で、油絵を描く段になって曽山が死去したと述べているので、明治25年以降の作品となる可能性もある。塾での墨画修行には4年ほどかけられ(注24)、油彩画で人体の全身像を描く迄にはさらに1、2年かかった。明治20年入塾の岡田が順調に課程を進んでいれば、明治23年は油彩画を学んでいたろうが、まだ初歩の段階であったろう。岡田は明治23年頃から肖像画を描いており(注25)、大幸館を卒業するのは明治26年である。その卒業制作である「矢調べ」〔図11〕は人物描写のぎこちなさも消え、背景も描きこまれている。画面は茶系の色で統一されているが、着衣の模様に鮮やかな黄・緑・青を入れている。そして強烈な光の生み出す陰には緑が使われ、目元には青や赤を差している。陰影に色を使うことを卒業制作において許されたのだろう。部屋の中に注ぐ強い光の中で矢を見る老人の鋭い眼差し。この作品は曽山の「武者試鵠」へのオマージュなのではないかと思われる。岡田はこの翌年に黒田清輝に出会って作品の様相を変え、明るい色を用いた、筆触を残す絵を描くようになる。堀江に色彩を学んでいたことが、いわゆる外光派といわれる絵画を理解する一助となったという(注26)。― 199 ―― 199 ―

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