注⑴「美術会規則書」(東京藝術大学大学美術館所蔵)は青木茂によって全頁紹介されている(青木茂「[資料紹介]松室重剛の工部美術学校関係の資料」(『近代画説』第10号,明治美術学会,2001年,57~61頁)。同規則書の改正版および「美術会入会之証」等、学習院大学史料館所蔵の美術会・画学専門美術学校関連資料は、拙稿「松室重剛伝来明治初期洋画関係資料について」(『松室重剛関係資料目録』学習院大学史料館所蔵史料目録第22号,学習院大学史料館,2015年)にまとめた。おわりに本研究では、美術会に関する新聞記事等の資料から、美術会と画学専門美術学校および図画局が組織的に分立していたことを確認した。また、曽山幸彦および大幸館関係者の作品調査をおこない、工部美術学校から画学専門美術学校を経て大幸館へと受け継がれた絵画指導の内容をあきらかにした。感染症の影響等により調査できなかった作品については、継続して調査をおこなっていきたい。美術会の状況を知る資料は、現段階では明治19年(1886)までにとどまっている。会員が増加して次の展開が期待されるところであったが、西洋美術家たちが団結して行動を起こすのは、明治22年の明治美術会発足を待つことになる。曽山は明治美術会の設立に当初から関与し、サンジョヴァンニ門下生として唯一、委員の一人に選出された。「明治美術会仮規則」(注27)に挙げられる活動内容に「美術会規則書」との共通点が多くみられる点は着目される。両会の共通点や相違点を考察することは、美術会が継承しようとしていた制作活動の様相を考える手掛かりとなり、また西洋美術家をとりまく社会の変化を見出すことにもなるであろう。謝辞本研究にあたっては、鹿児島県立図書館、鹿児島県歴史・美術センター黎明館、鹿児島市立美術館、笠間日動美術館、佐賀県立美術館、千葉県立千葉高校、千葉県立美術館、東京藝術大学大学美術館、宮城県美術館の方々(以上は機関名順)、ならびに山本伸夫氏にご高配を賜りました。末筆ながらここに記して心よりの謝意を表します。⑵本多錦吉郎編「大野義康君」『洋風美術家小伝 追弔記念』1908年,31頁。なお、旧字は常用漢字に改め、句読点を適宜補った(以下同)。⑶浦崎永錫『日本近代美術発達史[明治篇]』東京美術,1974年,152~153頁、土方定一「大野幸彦と大幸館」『土方定一著作集6 近代日本の画家論Ⅰ』平凡社,1976年所収,134~135頁⑷3人はサンジョヴァンニに学び、閉校に際しては修業証書を受けた。各人の略歴をここに記しておく。経歴および明治初期洋画と工部美術学校に関しては主に次の文献を参考とした。金子一夫『近代日本美術教育の研究─明治時代─』中央公論美術出版,1992年、山梨俊夫「技― 200 ―― 200 ―
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