術の画家─曽山幸彦をめぐって」『東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来[第一部]学問のアルケオロジー』東京大学,1997年、金子一夫『近代日本美術教育の研究─明治・大正時代─』中央公論美術出版,1999年、角田真弓『明治期建築学史』中央公論美術出版,2019年・曽山幸彦(後に改名して大野義康、1859~1892)は鹿児島に生まれ、明治11年に工部美術学校に入学し、助手も務めた。明治16年から工部大学校に出仕、工科大学造家学科の助教授となる傍ら、私塾で教えた。・堀江正章(1858~1932)は長野に生まれ、明治11年に工部美術学校入学。明治25年から29年まで画塾大幸館で、明治30年から昭和7年まで千葉中学校で教えた。・松室重剛(1856~1929)は京都に生まれ、非蔵人として幼少から朝廷に仕え、維新後は宮内省出仕となるが罷職。明治10年に工部美術学校入学。明治18年から千葉中学校、明治22年から大正10年まで学習院で教えた。⑸「松室重剛関係資料」中、「美術会規則書」(No. 5-4)⑹美術会会員の藤田文蔵は明治16年8月に「彫刻専門美術学校」の設置願を東京府学務課に提出しており、美術会母体の学校設立計画は早々に頓挫していたことがうかがわれる。彫刻専門美術学校と画学専門美術学校の設置願(東京府学務課『私立各種学校書類』,明治16年,東京都公文書館所蔵)には共通点があり、後者の設立にあたっては藤田の設置願を参照したか、美術会での草案があった可能性がある。なお、当時の私立学校で名称に「美術学校」を用いるのはこの2校のみ(東京都立教育研究所編『東京教育史大系』6,1973年)。美術会は画学彫刻学の2科を置く学校設立を想定していたと考えられ、工部美術学校の名称と教授内容を継承する両校によりそれが実現されたといえるだろう。⑺堀江正章「明治時代の西洋画」青木茂編『明治洋画史料 懐想編』中央公論美術出版,1985年所収(初出は『校友会雑誌』62号,千葉県立千葉中学校校友会,1923年3月)⑻東京府学務課『各種学校書類』,明治17年,東京都公文書館所蔵。設置願は明治17年12月23日提出、同月26日認可。開業届は翌年2月2日を開業予定日として提出された。設立者兼教員は松室・堀江の2名で、松室を校長とした。⑼同月25日にも同文の広告が掲載されている。⑽「松室重剛関係資料」。また「規則書」によれば、発足時の美術会は藤雅三の住所にあった。藤はこの明治18年より渡仏している。⑾後に大幸館および学習院の教師となった玉置金司の履歴によれば、美術学校在籍を明治18年12月までとし、翌年1月から曽山の塾に入っている。玉置の履歴は学習院アーカイブズのご教示による。⑿「松室重剛関係資料」中、「美術会員住所姓名表」(No. 5-4)および「美術会入会之証」(No. 7-18-1)。⒀岡田三郎助「平凡なる私の修業時代」『中央美術』第7巻第3号,1921年3月、高木背水「大野幸彦と堀江正章」青木茂編『明治洋画史料 懐想編』中央公論美術出版,1985年所収(初出は『邦画』3,1936年3月)、三宅克己「思い出づるまま」『日本人の自伝』19,平凡社,1980年所収(初出は光大社,1938年)⒁平木政次『明治初期洋画壇回顧録』近代日本学芸資料叢書第17輯,湖北社,2001年,93頁(初出は日本エッチング研究所出版部,1936年。松室と藤雅三の素描も出品された。⒂前掲注⒀、高木背水「大野幸彦と堀江正章」,255頁― 201 ―― 201 ―
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