鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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りばめられた王の芸術コレクションのプロローグであった。豊饒の間に飾られた彫像についての最初の記録は1682年のもので、扉や窓の両脇に合計8体の古代ローマ皇帝の胸像があった。1682年は鏡の間が落成し、フランス宮廷が正式にヴェルサイユ宮殿に設置された年であったが、これに伴い前年までテュイルリー宮殿にあった皇帝胸像がヴェルサイユに移されたと推測できる。これらの胸像コレクションは、アパルトマンの入り口付近のディアナの間と豊饒の間に置かれることで、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿において古代ローマ皇帝に匹敵する完璧な政治を執り行うことを表現したと理解される。2.ルイ14世による古代ローマ皇帝表象2.1.皇帝への意識ルイ14世は1661年に親政開始した頃から、神聖ローマ皇帝を意識していた。王太子のために口述筆記で執筆した『回想録』では1661年に、神聖ローマ皇帝の非正統性を述べている。ルイ14世曰く、フランス王の祖先であるシャルルマーニュは選挙によってではなく実力によって皇帝となったことに対し、選帝侯によって選ばれる神聖ローマ皇帝は称号の簒奪者であるという(注11)。一般に皇帝位は王位よりも上であるが、ルイ14世は神聖ローマ皇帝をドイツという共和国(République)の長とみなすべきだと述べ、王国より格下に位置づけた。そしてシャルルマーニュの子孫であるフランス王の方が正統な支配者であると主張した。ルイ14世は治世を通じてさまざまな手段で古代ローマを参照し、自身の権力や栄光を表現した。1662年の騎馬パレードでは王自身が古代ローマ皇帝の扮装をして出演した。絵画や彫刻、メダルにおいても古代ローマ皇帝の衣装をまとったルイ14世が表現された。その表象は1670年代後半に急増し、1680年代にピークを迎えるが、その背景には1678年に終結したオランダ戦争での勝利など、ルイ14世の治世が絶頂期を迎えたことがあった。ヨーロッパの覇者としてルイ14世を皇帝に、フランスを帝国になぞらえたイメージ形成が推進されたのである(注12)。鏡の間の天井画に古代ローマ皇帝の衣装をまとったルイ14世が描かれたのも、ちょうどこの頃である〔図9〕。天井画の主題は計画段階で2度も変更されており、最初はアポロ神話が、次にヘラクレス神話が計画されたが、最終的にはルイ14世自身を描くことになった。これは最高諮問会議でのルイ14世自身の意向であった(注13)。― 208 ―― 208 ―

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