2.2.鏡の間の古代ローマ皇帝胸像1722年に作成されたヴェルサイユ宮殿の目録には、アパルトマンに飾られている古代ローマ皇帝の胸像が記載されている(注14)。1715年にルイ14世が没してからしばらくの間、幼いルイ15世(位1715-74年)はパリに滞在していたため、1722年の時点でもルイ14世時代の装飾のままであったと考えられている。マザラン旧蔵の皇帝胸像は、ディアナの間に4体、鏡の間に8体あると記され、材質や形態などそれぞれの特徴が記述されている。どの胸像がどの皇帝を表しているかの記述はなく、ディスクリプションからどの像が鏡の間にあったか推測されてきた。ミロヴァノヴィチはディスクリプションとの照合に加え、イタリア等にある類似する皇帝胸像の特徴も参照して全8体を同定した一方で、マラルは慎重にディスクリプションとの照合のみでアウグストゥス、クラウディウス、ネロ、ティトゥスの4体を同定している(注15)。スエトニウスの著書には、カエサルやアウグストゥスなど偉業が強調される傾向にある人物もいれば、カリグラやネロなど悪行が強調される皇帝もいる。神話の神々に仮託したアパルトマンの装飾はもちろんのこと、その他のイメージ戦略を勘案すると、ルイ14世が自身を暴君や悪帝になぞらえて逆説的にその権力を誇示した例はない(注16)。よってアパルトマンの天井画では、描かれた神話や歴史の人物の個々の事績がルイ14世の特質に重ね合わせられていることに対して、胸像コレクションでは一人一人の皇帝の性質が意味をなすのではなく、全体として古代ローマ帝国の偉大さを象徴しているといえる。3.アパルトマンの改装3.1.王の寝室の移動ルイ13世(位1610-43年)が建てた小城館を起源とするヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が増改築を繰り返して大規模な宮殿に発展させた。1668年から1671年に行われた宮殿の増築では、王のアパルトマンと王妃のアパルトマンが左右対称に造られた。鏡の間は1678年に造営が始まり、1682年11月に落成式が挙行されたが、同時期にフランス宮廷が正式にヴェルサイユ宮殿に移され、国政の中心地となった。鏡の間の建設はヴェルサイユに宮廷を収容するための拡張工事の一環であった。1683年7月に王妃のマリー=テレーズが没する。1684年前半には王の宮廷生活の利便性を図って、王妃のアパルトマンの一部が王のアパルトマンへと造り替えられた。この時、王のアパルトマンへの入り口が北棟の大使の階段から、南棟の王妃の階段になった。これに伴い、宮殿内の動線が大きく変わった。それまで人々は北の大使の階― 209 ―― 209 ―
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