鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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段から新棟にある王のアパルトマンに入り、そのすべての部屋を通って宮殿の中心部へ進んでいたが、南の王妃の階段から小城館の部分に入って王の新しいアパルトマンを進むようになったのである。大使の階段から王の寝室に至るまではいくつもの部屋を通り抜けなければならなかったが、王妃の階段から入ればたったの3部屋で済んだ。一方で大使の階段は公式な経路として使われ続けた。たとえば1686年のタイ使節の謁見では、使節団は大使の階段から宮殿に入り、王の大アパルトマンを通り抜けて、謁見会場である鏡の間に進んだ(注17 )。1701年には王の寝室が宮殿の中心部に移った。この改装について、寝室が宮殿の中央に移ることで、国の中央に君臨する王という王権の象徴性が強固になったと考えられてきたが(注18)、近年では部屋の狭さや採光の悪さなど実用的な理由が重なって移動に至ったという説もある(注19)。いずれにせよ、王の寝室が鏡の間の隣室に移動することで宮殿内の動線が変わり、鏡の間の重要性が増した。3.2.動線の変化と彫像の配置1703年の記録では豊饒の間には王の他の彫像コレクションが飾られており、皇帝の胸像は鏡の間に移動していた。この移動の年は定かではないが、その理由には前述の王のアパルトマンの改装があると考える。1684年のアパルトマンの改装により、宮殿内部の動線が大きく変わった。それまで王のアパルトマンの入り口として訪問者が最初に入室したディアナの間やウェヌスの間や豊饒の間は、新しい動線ではアパルトマンの奥に位置することになり、そこに飾られていた古代ローマ皇帝の胸像は、以前よりも人目につかなくなった。ヴェルサイユ宮殿で行われるルイ14世の政治の象徴として、これらの胸像を目立つ場所に移す必要性があったと推測できる。その移動先が、王妃の階段から入る新しい入場ルートに近く、宮殿内で人々が頻繁に往来する鏡の間であった。控えの間は身分の高い者しか使えず、それ以外の者は鏡の間で待つ必要があった。したがって、鏡の間は全長72メートルのギャラリーであるが単なる通路ではなく、常に多くの人々が佇む場所である故、その装飾は常に人目に晒されていた。古代ローマ皇帝の胸像は鏡の間に設置されることで、再び人々の目に触れるようになったのである。4.鏡の間における皇帝胸像の象徴性鏡の間の天井画には、オランダ戦争(1672-78年)での勝利や内政の改革などルイ― 210 ―― 210 ―

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