6月)、ジャコベリス事件(1964年6月)、パットナム社事件(1964年7月)といった60年代前半の3つの判決は、いずれも原審で問題となった物件のわいせつ性が否定され、性表現に対する規制は大きく緩和される方向に進むこととなった。こうした性表現の過激化は、当然のことながら美術にも影響を及ぼし始めていた。批評家のヒルトン・クレイマーは、1966年の『ニューヨークタイムズ』紙のなかで、ある動向がひとつの流行として顕在化し始めていることを次のように報告している。その予兆は紛れもないものだった。趣味、習慣、そして公の場で許容される言説や行動の基準における広範囲の変化が、この道を準備してきた[中略]小説、特に映画、舞台、批評家や哲学者の議論、さらには政治の急進的な部分に至るまで、この傾向はすでに確立されている。視覚芸術の分野では、この大洪水は長い間予想されていたが、不可解なほど遅れていた。しかし、われわれはいままさにその途上にいるようだ。エロティックアートの季節がやってきたのだ(注15)。クレイマーは、視覚芸術の領域で性表現に対する法規制がますます試されることになるだろうと文章を締めくくっている(注16)が、実際、クレイマーの記事からほどなくしてニューヨークシティ・アーツ・シアター・アソシエーションで開催された展覧会「ヘテロ・イズ」(1966年12月4日─1967年1月14日)〔図5〕は、過激な性表現を含むものであった。同展覧会の展評を執筆しているアーノルド・ウェルズは、「男性と女性の両方の性器が、裸体の一部としてだけでなく、独立した存在として、それそのもののサイズで残酷なまでにリアルに表現されている」(注17)同展示に対して、性表現に関する「あらゆる制約が取り払われてしまっている」(注18)と述べている。しかし、性革命に呼応して出現したエロティックアートという動向は、デ・クーニングのこの時代の女性像とは異なって、エロスの解放や全身体の活性化といった観点から評価されることはなかった。バーバラ・ローズは、1965年に書かれた「不潔な絵」という記事のなかで、トム・ウェッセルマンの《グレートアメリカンヌード》や、フィリップ・パールスタイン、メル・ラモスの《ピーカブー、ブロンド》といった作品を「商業化された性の醜悪な象徴」、「産業化されたエロティシズム」といった言葉で形容しながら、彼らのヌードにおける肉体の扱いを以下のように記述している。エロティックなものの文脈にはあるが、しかし肉体は冷たく、名を持たない表面のように描かれており、温かさ、質感、肉体性を否定している。これは転倒して― 220 ―― 220 ―
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