(1)観音・地蔵像他7軀の立像も薬師如来像と同じく一木造りで内刳りを施さない、古様な構造技法を採用している。観音菩薩像と地蔵菩薩像は、動きの少ない体勢や単純にあらわされた衣の表現、穏やかな面貌表現などから、平安時代後期、12世紀頃の作とみられる。作風が共通することから、この2像は一対の像として造られたと考えられる。四天王像と兜跋毘沙門天像は観音・地蔵像に比べると、頬が引き締まっており体の抑揚も強いことから、製作年代は2像よりも早い、11世紀後半とみられる。薬師堂には天文21年(1552)10月26日銘の祈祷札が伝存しており、記された内容から、同年9月19日の三原山噴火とともに起こった大地震鎮護のため、下田から阿闍梨を招いて行った祈祷に際してのものとわかる(注4)。また、大島町所蔵の天明9年(1789)『伊豆国大嶋差出帳』に「蔵王権現薬師十二神、新島村、正月四日・五日・八日の三度祭礼仕来候」とあり、薬師堂に関する記述とみられる(注5)。他に薬師堂や諸像に関する記録は現在確認できておらず、諸像の伝来も不明である。薬師如来像は都指定の7軀よりも一回り小さく、これらの本来の中尊であったとは考えられない。薬師堂にはかつて30余軀の仏像が安置されていたといい、薬師堂付近に点在していたと考えられるみたけ堂など数社に分散していた像を一括して収納したものではないかとの推定もあり(注6)、伝来諸像がもとから薬師堂に安置されていたのかどうかは判断しがたい。ただし薬師如来像と他7像は、眉と目の間隔が広く、鼻を小ぶりにあらわす点などが共通する。造立当初から同じ堂内に安置されていたとは考えがたいものの、少なくとも現在薬師堂の残る三原山一帯に薬師如来像を中心とした信仰があった可能性があり、本像を含めた薬師堂伝来諸像はその一連の造像に含まれるものと考えられる。3.吉谷神社薬師堂伝来諸像各像の特徴観音・地蔵の組み合わせは、中国唐時代に一対で祀る「放光菩薩」として信仰され、日本では平安後期に、おもに阿弥陀如来像の脇侍として地方で多く造られた。また、奈良市大慈仙町所蔵の天治元年(1124)の薬師如来像台座の銘記には薬師の脇侍として観音・地蔵像を同時に造ったことが明記され(注7)、平安後期には薬師如来像に随侍した例もあったことがわかる。放光菩薩と称された観音・地蔵の壁画にまつわる功徳譚が語られる『阿娑縛抄』収録の「放光菩薩記」には水難救済の功徳が解かれており、四方を海に囲まれた島嶼である大島においては海難よけの効力を期待されて造立された可能性が考えられる。この2像が三尊像の脇侍として造られたのか、並― 230 ―― 230 ―
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