(2)四天王像(3)兜跋毘沙門天像列像として造られたのかはわからないが、前述のように薬師如来に随侍した例があることを思えば2像が薬師堂に伝来したことは注目される。本四天王像は4軀すべてが兜をかぶる全国的にも稀少な作例である。この形式の作例として現在確認しているのは、岩手・黒石寺像(持国・増長天貞観4年〔862〕頃、広目・多聞天10世紀初め)、茨城・妙法寺像(10世紀初め)、文化庁所蔵の尼崎家旧蔵像(12世紀)、新潟(佐渡)・長谷寺像(10世紀末)、長野(松代)・清水寺像(9世紀末~10世紀初め)、兵庫・鶴林寺像(天永3年〔1112〕頃)、鹿児島・隼人塚像(11世紀後半)、愛媛・浄土寺像(平安後期)の8例である。なお尼崎家旧蔵像や隼人塚像との関係が指摘されている大分・真木大堂像(平安後期)も、4軀中唯一兜をかぶらない広目天像の頭部は後補とみられ、この一例に加えられる可能性が高い。また静岡・南禅寺像(県指定文化財の1軀と河津町指定文化財の3軀、10世紀)も一例に加えられる可能性があるが、この天王像4軀を一具とは認められないとする意見もある(注8)。4軀すべてが兜をかぶる四天王像の現存作例のほとんどが平安時代の地方作であるなかで、中央にほど近い鶴林寺像の存在が注目される。鶴林寺は薬師如来像を本尊とする天台宗寺院で、四天王像は重要文化財の釈迦三尊像とともに、天永3年に法華堂として建立された太子堂に伝わった。釈迦三尊両脇侍は天永3年頃の製作とみられ、四天王像も同じ頃の作と考えられる(注9)。前述の8例のうち、黒石寺と妙法寺は天台宗寺院である。また清水寺には四天王像を含む一連の造像のなかに天台宗系統の薬師如来像が伝わっている(注10)。東国で造られた4軀すべてが兜を被る四天王像の形式は、天台宗のなかで採用されたものであった可能性が考えられる。なお現在は真言宗豊山派の長谷寺については、寺伝によると、行基創建という長谷寺のあったところに、平安時代に山中の養禅寺と長楽寺が移ってきて現在の堂宇を形成したという。寺に伝わる「長谷寺来由記」には、慈覚大師が彫った大日・薬師・宝生像を三重塔に安置して長楽寺の本尊とした、との記述がみられ(注11)、天台宗とのつながりがうかがえる。本四天王像と長谷寺像は周りを海に囲まれた島嶼における造像であり、この2例が同様の意識をもって造立された可能性は高い。兜跋毘沙門天像は9世紀に入唐僧によりもたらされたと考えられる京都・教王護国― 231 ―― 231 ―
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