寺(東寺)の木彫像を根本像として、平安時代後期以後に多く造られたことが知られるが、その像容は一様でなく、東寺像とは異なる系統も少なくない。地天が支える毘沙門天を兜跋と呼び、一般的な形姿の毘沙門天像と区別するようであるが、所依の経軌を欠くため、「兜跋」の語義や図像についての規定は不明確で、一般的な像との信仰上の違いも明らかではない。本像の甲制は概ね平安時代の通常の神将像と同様の形式をとり、地天女も日本の女神像の形態を採用している。ただし円筒形の冠は、東寺像が着ける盾形の筒冠を模したものと考えられる。東寺像にみられる海老籠手の有無は確認できない。兜跋毘沙門天像の役割については、一般的に境界における鎮護や辟邪などが挙げられてきた(注12)。最近の研究では、仏道修行者や説法者の守護という性格を色濃く反映している可能性を指摘する意見もある(注13)。吉谷神社薬師堂像について考察するうえでは、長坂一郎氏が指摘した兜跋毘沙門天に海難救済信仰があった可能性に注目したい(注14)。鈴木喜博氏が、横川中堂の観音菩薩像脇侍の毘沙門天像について、正嘉元年(1157)の『私聚百因縁集』では円仁の海難時に現れた毘沙門天の形姿が片足垂下の坐像とされていることに注目し、具体的には前唐院所在図像兜跋毘沙門天坐像の形態であった可能性を指摘しているが(注15)、長坂氏の指摘はこれを受けてのことである。『山門堂舎記』には、円仁入唐の際の海難時に観音に祈ったところ毘沙門天が現れ難を逃れ、帰山後に横川に根本観音堂すなわち横川中堂を建立し、観音像と毘沙門天像を安置したことが記されている。また横川中堂失火の際に平信範(1112~1187)が天台座主の壇所を訪ねて聞いた話として『兵範記』仁安4年(1169)2月5日条に『山門堂舎記』と同じ内容の話が掲載されていることから、このときまでには天台内部の伝承として存在していたことがわかる。これらによると横川中堂の観音像と、前唐院所在の兜跋形図像によっていた毘沙門天像は海難救済信仰による造像と考えられていたことになる。長坂氏は以上から、他の一連の兜跋毘沙門天像にも海難救済信仰があった可能性を指摘している。共に薬師堂に伝来した観音・地蔵像も「放光菩薩」として海難よけの効力を期待されての造像であったと推測できるとすれば、2像と共通の作風をもつ本兜跋毘沙門天像もふくめ、一群の像が天台宗における海難救済信仰のもとで造られた可能性は十分考えられるであろう。4.伊豆半島周辺における天台宗に関わる薬師造像吉谷神社薬師堂伝来諸像のうち、四天王像と兜跋毘沙門天像は作風が近似することから同時の作とみられるが、薬師如来像を中尊とする群像中にこの二尊が含まれる作― 232 ―― 232 ―
元のページ ../index.html#244